2010年07月06日
夏はボサノバ
国道330号線沿い、園田の山根ビル。
昔、今では伝説になったあの「アイランド」の拠点。
「ユーミン」のライブが行われたこともありました。
その4階のライブハウス「レイラ」、昔のギンギンの装いから一変。
今は、クラシックからマジックまで、幅広いジャンルのライブが楽しめます。
開店間もないせいで、認知度は今ひとつです。
しかし、音楽の街を宣言した沖縄市のもう一つの顔になることは間違いありません。
ロックだけでは無い、コザの音楽ジャンルの幅広さを見せてくれた先日のクラシックコンサート。
むき出しのコンクリートの天井が気になることも無く、素晴らしい音色を堪能させられました。
クラシックを、お酒を飲みながら聴ける楽しみなんてのは、そうそう味わえるものではありません。
今後も同じ様な試みを続けていけば、クラシックファンの底辺拡大に寄与することでしょう。
さて、コザの真夏の祭典「ピースフル」も終わりました。
しかし、真夏の音楽といえば、もう一つ「ボサノバ」も忘れてはいけません。
いっぱいの光に溢れている真夏の沖縄の海、しかし、その光の中に潜むもうもう一つの表情。
「おきなわんチルダイ」とも言える、どこか訳の分からないけだるさ。
その雰囲気にピッタシなのが、海辺で聴くボサノバかもしれません。
しかしそのメロディーは、聴く人によっては、大都会の喧騒の中の孤独な「渇き」、それを癒すものに聴こえるのかもしれません。
ブラジルで生まれたボサノバが、ニューヨークで進化し、さらに全世界に広まったのも、その辺の所にあったのかもしれません。
タンゴと同じ様に、ラテン音楽の陰とも言えるボサノバ、しかしそれはまた、ラテン音楽にこの上も無い深みをもたらしました。
開店間もないライブハウス「レイラ」。
今宵はボサノバで盛り上げましょう。
チケットの販売がいまいちのようです。
せっかく出来たコザのライブハウスの芽をつぶさない為にも、皆で応援したいものです。
2010年07月01日
骨拾い
三日前、救急車で運ばれた義父、連絡があって嫁が向かうも、僕に届いた電話は・・・
「ご臨終」の知らせ。
嫁は臨終の場に居合わせたのだろうか、ということを僕は考えませんでした。
実は、僕自身、親父の臨終の場にに立ち会うことが出来ませんでした。
ちょうど東京主張中で、急報を聞いて駆けつけた時は、時既に遅しです。
本当の意味で、親の死に目に会うという事の体験が僕には無いのです。
親父は、翌日僕が駆けつけた時には、もう既に冷たいむくろになっていました。
僕はそれまで、さんざん迷惑、心配を掛けた親の気持ちなんか、考えた事も有りませんでした。
むしろ、自分本位の反発が先に来ていた、そんな気がします。
親父、或いは、子供と親の関係は、そんなもんだとばかり思っていました。
或る意味、ムチャクチャな甘えそのものだったと思います。
今日、久しぶりに、本当に35年ぶりに、火葬場で、義父の骨拾いをしました。
最近は病院通いをしていた義父ですが、その骨の粗さは、並外れていました。
昔海軍に居たというのが自慢の口癖だったようです。
確かに、大正生まれにしてはかなりの身長だったと思います。
嫁を貰いに最初に伺った時の印象の強烈さ・・・
まさに、大正生まれの男の骨太さを伺わせるものでした。
それが、火葬場の釜から出てきた時は、ちょっと押せば砕ける様な、本当にもろい、白いかたまりです。
35年前の、あの親父の骨拾いの体験が、まざまざと甦ります。
あの時、僕は、何を、そして、どんな想いで骨拾いをしていたのでしょうか。
たぶん、火葬場の釜のスイッチを押すのが、男たる長男のさいたる務めだという義務感があったと思います。
しかし、そのスィッチを押すと同時に聴こえてきたあの釜の轟音・・・
そして、ご丁寧にも、覗き窓からその釜の灼熱の火を確認させられた体験・・・
肉体が燃える、その現場を見た時、永年、親父に反発ばかりしていた僕の中で、何かが壊れました。
それは、積年の恩讐を全て焼き尽くし、まさに、裸の親父が見せてくれた最後のメッセージでした。
その時まで抑えていた想い、感情、その全てがいっきに出てしまいました。
もうそれからは、涙が止まりません。
そして、釜から出てきた、親父の、まだ生温かい白い骨・・・
涙と共に流された色んな想い、それを、白い骨が、一瞬にして違う想いに導いてくれます。
目の前の白い骨と、親父の像の、あまりにもかけ離れた現実・・・
その落差に、戸惑いと、何処か漂う虚しさ・・・
その後、一瞬にして、親父の生きてきた歴史に想いを馳せます。
その時、生まれて初めて、僕と親父は時を共有した様な気がしました。
そして今日、義父の骨拾いです。
親父の骨拾いをした時、僕はまだ30前でした。
しかし今、僕は、確実に親父の歳を越えてしまいました。
あの時の、白い骨に感じた衝撃と感動をすら忘れていた歳になっていたのです。
所詮、人間の感動とか、想いというものは長続きするものでは無いのかも知れません。
しかし、ある日突然それが出てくる、そんな想い、或いは体験というのは意外とあるものです。
僕にとっては、まさにそれが義父の骨拾いだったのです。
様々な家族の歴史、時代、そしてそれに翻弄された個人の歴史。
そして、これからも続くドラマの数々・・・
それは、決して書かれないドラマかもしれません。
しかし、無数の家族が有るように、その数も底知れないものが有ります。
何気ないお葬式、そして何気ない「骨拾い」にもそれは隠されています。
「ご臨終」の知らせ。
嫁は臨終の場に居合わせたのだろうか、ということを僕は考えませんでした。
実は、僕自身、親父の臨終の場にに立ち会うことが出来ませんでした。
ちょうど東京主張中で、急報を聞いて駆けつけた時は、時既に遅しです。
本当の意味で、親の死に目に会うという事の体験が僕には無いのです。
親父は、翌日僕が駆けつけた時には、もう既に冷たいむくろになっていました。
僕はそれまで、さんざん迷惑、心配を掛けた親の気持ちなんか、考えた事も有りませんでした。
むしろ、自分本位の反発が先に来ていた、そんな気がします。
親父、或いは、子供と親の関係は、そんなもんだとばかり思っていました。
或る意味、ムチャクチャな甘えそのものだったと思います。
今日、久しぶりに、本当に35年ぶりに、火葬場で、義父の骨拾いをしました。
最近は病院通いをしていた義父ですが、その骨の粗さは、並外れていました。
昔海軍に居たというのが自慢の口癖だったようです。
確かに、大正生まれにしてはかなりの身長だったと思います。
嫁を貰いに最初に伺った時の印象の強烈さ・・・
まさに、大正生まれの男の骨太さを伺わせるものでした。
それが、火葬場の釜から出てきた時は、ちょっと押せば砕ける様な、本当にもろい、白いかたまりです。
35年前の、あの親父の骨拾いの体験が、まざまざと甦ります。
あの時、僕は、何を、そして、どんな想いで骨拾いをしていたのでしょうか。
たぶん、火葬場の釜のスイッチを押すのが、男たる長男のさいたる務めだという義務感があったと思います。
しかし、そのスィッチを押すと同時に聴こえてきたあの釜の轟音・・・
そして、ご丁寧にも、覗き窓からその釜の灼熱の火を確認させられた体験・・・
肉体が燃える、その現場を見た時、永年、親父に反発ばかりしていた僕の中で、何かが壊れました。
それは、積年の恩讐を全て焼き尽くし、まさに、裸の親父が見せてくれた最後のメッセージでした。
その時まで抑えていた想い、感情、その全てがいっきに出てしまいました。
もうそれからは、涙が止まりません。
そして、釜から出てきた、親父の、まだ生温かい白い骨・・・
涙と共に流された色んな想い、それを、白い骨が、一瞬にして違う想いに導いてくれます。
目の前の白い骨と、親父の像の、あまりにもかけ離れた現実・・・
その落差に、戸惑いと、何処か漂う虚しさ・・・
その後、一瞬にして、親父の生きてきた歴史に想いを馳せます。
その時、生まれて初めて、僕と親父は時を共有した様な気がしました。
そして今日、義父の骨拾いです。
親父の骨拾いをした時、僕はまだ30前でした。
しかし今、僕は、確実に親父の歳を越えてしまいました。
あの時の、白い骨に感じた衝撃と感動をすら忘れていた歳になっていたのです。
所詮、人間の感動とか、想いというものは長続きするものでは無いのかも知れません。
しかし、ある日突然それが出てくる、そんな想い、或いは体験というのは意外とあるものです。
僕にとっては、まさにそれが義父の骨拾いだったのです。
様々な家族の歴史、時代、そしてそれに翻弄された個人の歴史。
そして、これからも続くドラマの数々・・・
それは、決して書かれないドラマかもしれません。
しかし、無数の家族が有るように、その数も底知れないものが有ります。
何気ないお葬式、そして何気ない「骨拾い」にもそれは隠されています。
2010年06月12日
文化力、地域力、そして雇用
秋田県にある「たざわこ芸術村」の全体概要図です。
わらび座の常設劇場を中心に色んな施設が集積しています。
温泉宿泊施設、農場、研究施設、レストラン、そして、とうとう地ビール工場まで作ってしまいました。
中核の劇団わらび座がこの地に移って来て60年近くなるようですが、ここまできた裏のドラマに思いをはせると、軽い身震いすら覚えます。
おそらく最初は、地元の人達の誰一人として素直な気持ちでは迎え入れきれなかったと思います。
東京の劇団が、はるばる雪深い秋田の山奥に拠点を移すなんて、想像を絶したことです。
しかし今では、日本どころか、世界中で、年間1300回以上の公演をこなす日本を代表する人気劇団に成長しました。
現在、劇団員は60名ほどのようですが、それ以外に全国から集まってくる研修生も多数います。
劇団の活動が核になって、このように、地域と一体となった活動の場が広がりました。
まだグリーンツーリズムという言葉すら無かった時代からそれは始まっていたのです。
そしてその広がりは、地ビールの製造へと発展していきます。
原料を完全に地元でまかなうという壮大なプロジェクト。
劇団という一つの文化集団が、60年という年月を経て、ここまで大きくなったのです。
それは同時に、地域との関わりの広がりを示すものでもあります。
過疎に悩み、高齢化に悩む集落が増える中、「たざわこ芸術村」には、現在360名余の人が働いています。
もちろん、その中には、全国から集まってきている大勢の若い劇団員、研修生もいます。
そして劇団の成功は、世界中から人を呼び寄せる波及効果を地元にもたらします。
実は、我が沖縄市からも新崎恵子先生が琉球舞踊の指導に行かれたそうです。
秋田といえば「わらび座」、佐渡といえば「鬼太鼓座」、「鼓動」、青森といえば「津軽三味線」という風に、地域と密着した歌舞団、文化集団を持つという事。
わらび座の様な形態は長い時間を掛けなければ無理ですが、しかし、そこに大きなヒントが隠されている様な気がします。
地域独特の個性、文化コンテンツ、歴史を見直せば、宝の山が埋まっていると思います。
皆そこのところは気が付いているのですが、そこから先に中々進みません。
わらび座の60年には勝てませんが、少なくとも10年のスパンで考える必要があるのかもしれません。
フランスの文化予算が日本の30~40倍、韓国のそれも3~5倍という現実。
明確な国会意思としての戦略的な発想の有無が、現在の韓流ブームの底に流れていることに気付かなくてはなりません。
同じ様に、地方が、地域が、戦略的な発想で文化政策を進めてもおかしくない時代になりました。
金沢や、横浜等、全国に成功事例がでてきています。
しかしそこには、強いリーダーシップが必要です。
そして、覚悟が必要です。
しかし今後、確実に、文化力が地域力を示すバロメーターになる日が来ると思います。
沖縄市の文化コンテンツは実に豊富です。
写真にある若手歌舞集団も確実にレベルアップしています。
今後このような若手集団の積極的な支援、育成を考えていくことが必要ではないでしょうか。
そのためにも、プロの脚本家、演出家、そしてプロデューサーの発掘が必要です。
沖縄市の文化コンテンツの一つに、1960~70年代のロックもあります。
今年のロックの日の特徴的で感動的なことは、脚本そのものを喜屋武幸雄さん自ら手がけたという事でしょう。
彼らが一番良く知っている当時の状況、コザの混沌とした現実。
ロックミュージカルの観客に60~70のおじさん、おばさんが一杯いるコザの不思議な空間。
同時に、エイサーや伝統音楽も盛んな地域。
それこそ、文化コンテンツそのものではないでしょうか。
足りないのは、確固たる意思の発露たる文化政策、戦略だけだと思います。
2010年06月09日
毎月20日はコザ暴動を語る会
久しぶりに書きます。
又見て下さい。
写真はパルミラ通りにある「ヒストリート」。
街中の資料館としては、全国屈指の充実度を誇ります。
しかもそれが、戦後のコザ、そしてその関連のアジアをテーマとしたものです。
沖縄市市史編集室の並々ならぬ意気込みを感じさせてくれる場所です。
館内の一番奥にある「コザ暴動」のコーナー。
当時、米軍関連の自家用車は皆黄色ナンバーを付けていました。
その実物も見受けられます。
その黄色ナンバーの車80台余を燃やしたのがコザ暴動です。
1970年12月20日の夜にそれは起きました。
その現場に居合わせた僕らには今でも生々しい出来事です。
或る人は「戦争が起きたと思った」、また或る人は「革命がおきたと思った」と、現場に遭遇した人の初印象はそれぞれ違うものです。
しかし共通しているのは、当時のコザ、或いは沖縄の置かれた特殊な状況の認識です。
全くの植民地、欧米型の巧妙な植民地、それゆえの様々な過酷な矛盾。
それに対する感情の爆発が、おそらく「コザ暴動」の本質なのかもしれません。
しかし、あれから40年が過ぎました。
事件そのものを知らない世代が社会の中枢を占めようとしています。
そして、戦争体験と同じで、実際に体験した人の中には、まだまだ生臭くて、とてもまだ語れないという人もいます。
40年という歳月は、長いようでいて、実は微妙な節目です。
しかし、この機会を逃したら、後は記憶の風化に任せてしまうばかりです。
幸い、NHKの喜多記者からの提案があり、沖縄市の市史編集室、広報と共同で、体験者の証言を集めるプロジェクトが発足しました。
4月の20日に正式に発足し、既に2回目を終わったところです。
写真は2回目の様子です。
その日の証言で、今まで余り知られて来なかった事が出てきました。
詳しい事は、後日市史編集室から出版されるであろう証言集に譲りますが、とにかく目からウロコでした。
すごいピンボケ写真ですが、実は大きな意味があります。
体験者の証言を集める段階で、実は拒否されたことがあります。
その人は、実際に第2ゲートに突入して、アメリカ人の小学校に火を付けました。
その証言をお願いしたのですが、当然の事ながら拒否されました。
実は、彼の現在の仕事が、アメリカ人と関わりのあるものだからです。
40年という月日は、彼にとって決して断絶はしてないのです。
同じ様な事例がコザには多いんじゃないかと思います。
そこで、当プロジェクトでは、皆の前、マスコミの前では話せないという人には、市史編集室の少人数のメンバーが、直接本人にを訪ねることにしました。
もちろん、匿名を条件にです。
これを機会に、少しでも多くの人に語ってもらいたいというのが趣旨ですので、たくさんの情報提供をお願いしたいと思います。
写真は、6月1日に行われたTさんの証言を聞く会の模様です。
この証言も、今まで又聞きでしか聞いたことがなかった模様が、実に生々しく熱く語られ、全員圧倒されました。
当プロジェクトの運営は、緩やかなルールで行われています。
当然、一般の方の参加も認めています。
むしろ、若い方達の積極的な参加をお願いしたいぐらいです。
ただし、証言者或いは当プロジェクトの意に反した「証言の無断利用」は固くお断りさせていただきたいと思います。
色んな方達の証言を、偏り無く公平に集めようというのが、当プロジェクトの大きな趣旨です。
その趣旨をご理解の上、毎月20日夜7時に「ヒストリート2」までお越し下さい。
12月まで続きます。
2009年11月29日
「アイモコ」ライブをモッズで
毎月第三金曜日、北谷のライブハウス「モッズ」で行われる「アイモコ」のライブ。
今回は銀天街の青年部長を紹介がてら、総勢6名で押しかけました。
週末の美浜は、コザとは別世界。
気の早いイルミネーションが、あまり美浜に似つかない僕らを迎えてくれました。
似つかないと言えば、ハルサーミュージシャンの「アイモコ」も一緒でしょうか。
大宜味の開拓部落で農業を営む二人。
その歌は、あくまでも土に根ざした暖かいものです。
沖縄に今まで無かった全く新しいジャンルを開拓してくれました。
そして、二人の活動は、開拓部落「江州」、そして「大宜味村」を全国区に広げようとしています。
毎月第二土曜日、日曜日のファーマーズマーケットには、たくさんの人が訪れます。
ミュージシャンと地域の関わり方の新しい形がそこにはあります。
二人のライブはお客さんを飽きさせません。
モコちゃんの、物まねを交えたおしゃべりは、福岡のFM局での人気DJだった時の事を彷彿とさせてくれます。
そして、同じく福岡でのストリートミュージシャンの経験が生きているアイロウ君の朴訥とした語り。
歌の世界だけでなく、日常の生活でも飾りの無い、素のままの二人を見ているような気がして嬉しくなります。
壱岐と沖縄の何処か近い関係を暗示している、その様な気もしてくるから不思議です。
黒潮の洗う島の出身の二人、モコちゃんは沖縄に来てホームシックとは全く無縁だそうです。
その二人が、二枚目のアルバムを出しました。
12月5日の銀天街祭りでも披露してくれるであろうそのアルバムの中から、「ハルサー讃歌」の一節を紹介します。
作詞はモコちゃん、作曲はアイロウ君です。
日照りが続けば天を仰いで 雨を請い 雨が続けば雲の切れ間に 光を願う
そうやって だいじに 大切に
育てた野菜や花たちは わが子のように愛らしいのです
種をまいたら朝が楽しみで 芽が出たら明日が楽しみで
花が咲いたら毎日が楽しみで 実がなれば笑顔がたのしみで
少しぐらい カタチは悪くても 恵みあふれている
歌詞はその後3番で次のように締めくくられます。
咲いてしまえばほんの一瞬で 熟れてしまえばほんの一瞬で
食べてしまえばほんの一瞬で 病気になればこれも一瞬で
その一瞬が輝けるように 汗にまみれている
曲をお届けできないのが残念ですが、是非12月5日の銀天街でお聞き下さい。
今まで誰も作れなかった全く新しいジャンルの歌を感じる事でしょう。
そこにあるのは、開かれた、素直な、土の匂いのする暖かい世界です。
2009年11月27日
1000円は強い!
中の町社交街、「BAR10ストリート」主催の3回目のイベント。
1000円で10軒をハシゴ酒。
いくらデフレ状況下の日本でも、こんなお得な企画はまず無いでしょう。
前回は確か12軒だったと思いますが、無事完走。
さて今回はどうなることかと思いながら、一番遠い店へ。
そこで出された一杯は、泡盛の6:4のちょっときつめの水割り。
量はというと、普通のグラスよりも余分に入るその日限定のプラスチックグラス。
最初の一杯は皆余裕、軽く飲み干し2軒目へ。
この写真の店は何軒目だったのでしょうか。
この頃からだんだん酔いが廻ってきて皆ハイになっています。
コザでは有名な某新聞社の部長とバッタリ、分けも分からず盛り上がります。
写真に写っている二人、実は、全くの初対面。
いや、僕らもそうです。
前日コザに来たばかりの岐阜の女性。
コザは確か初めての筈です。
しかし、この盛り上がり様。
すっかりコザのファンになってくれました。
何はともあれ今回も無事完走。
最後の店に着くと、銀天街屋台村の「がちまやー」の二人のライブが始まっていました。
ここは、いつも銀天街で歌ってくれている「安里」さんの「微風」です。
「神饗」の二人の歌、心地よく皆の胸を打ちます。
しかし、僕の記憶もここまで。
その後、「コザクラ」に行ったのかどうか、まったく覚えていません。
気が付いたら、自宅の居間の畳の上。
我が家の14歳の猫がすぐ側に。
何はともあれ、今回も無事完走。
BAR10ストリートの皆さん本当に有難う。
また飲みに行きます。
1000円の威力をまざまざと見せ付けられた中の町の夜でしたが、同じ様に、1000円で飲み放題という企画がこれです。
しかも、500円の食事券付き、さらに銀天街名物のてんぷらが一皿付いてきます。
そして、今年一番のライブ企画も。
中学生のブラスバンドから民謡、オールディーズ、そして、今評判の「ARIA ASIA」と多彩な内容です。
そして総合司会とライブをラジオ、テレビでお馴染みの「アイモコ」が努めます。
5000円でも安いと思いませんか?
それが、何と1000円です。
枚数に限りがあると思いますので、お早めにお買い求めをお願いをします。
(お問い合わせは、下記のTELまで)
沖縄商工会議所 938-8022
2009年11月16日
アサヒア~トフェスティバル報告会行ってきました
先週末、アサヒアートフェスティバル(AAF)の報告会に参加。
二年振りの参加でしたが、相変わらずの会場の熱気。
プログラムも盛りたくさん。
二日間にわたり、全国から来たアーティストや、プロジェクトに携わったNPOなどの団体と語り合い、交流を深めます。
初日は各団体の報告会です。
今回のAAF22009に参加した26の団体の報告がありました。
その内容も実に多岐にわたります。
その中には、ユニークなタイトルのものもあります。
一見不真面目そうですが、実は、地域資源を考え、それを徹底して生かしていく地域創造型プロジェクト。
社会とアートの距離の近さが伺えます。
しかも今回プレゼンに参加してくれたのが、実は、八戸市職員。
写真を撮るのは忘れてしまいましたが、とっても素敵な美女でした。
実は八戸市は、中心市街地活性化の認定を受けた団体で、既にそのプログラムが動き出しているそうです。
詳しいパンフレットは後日送って貰う約束をしましたが、その要は「はっち」という複合文化施設のようです。
沖縄市の例でいうと、「あしびなー」と「音市場」と「公民館」、それに「図書館」といった公的な施設、市民交流拠点施設を、中心市街地に建設するといったようなものでしょうか。
職員の方と話しても、八戸市の本気度が伺えます。
来年、是非一度は訪れて見たい街です。
同じ様に各地の街づくりNPOに参加している役所の職員、今回何名かの方と話をさせてもらいました。
NPO法人「BEPPU PROJECT」のの中心メンバーにも、活発な、話し始めると止まらない美女が。
初めてAAFに参加を決めた時は、実はまだ組織の体制もはっきりとしたものではなかったそうです。
しかし、それが今年、「混浴温泉世界」の一大イベントにつながり、別府の魅力を世界中に発信するまでに発展しました。
AAFの始めた壮大な実験は、最初は小さく生まれたイベントでも、智の集積と地域との交流でいかに大きく出来るかを示してくれました。
加藤さんの言う、開かれたアートの力が地域を動かす原動力になるということが、今回も報告会に参加して実感出来ました。
そして、AAFに参加している全国の色んな団体との横の連携も大きな目的の一つだという事も・・・
実際、団体と団体の行き来しての「交流プログラム」、その報告会は、今後のAAFの大きな可能性を示している様な気がして、大変興味深いものでした。
しかし一方で、「まつり」としてのAAFが、その根源的な「意味」の共有化が出来るか?
もしそれが出来なくなった時、AAFの役割は終わる危険性もあるということを考えて貰いたいと、加藤さんは参加者に訴えます。
そして、ビジョンを喚起できるものこそがAAFの役割で、アートはもっと開かれたものであって欲しいという発言にもつながっている様な気がしました。
それは、芹沢さんの「アートと社会の健全な戦略的なつながり」という発言にも共通しているように感じられます。
何れにしろ、地域とアーティストの関係、それは何よりもお互いが主体的に関わるということだと思います。
一方が相手を利用するようなことではなく、相手の側とどう繋がっていくのかを考えなくてはなりません。
本来コミュニティーが持っていた多様な「アート」の心。
コミュニティーがズタズタにされた現代こそ、その力は、人々を繋げていく大きな可能性を秘めています。
「孤立から連携へ」というのも芹沢さんの言葉だったと思いますが、そこにアートと、そして街づくりのキーワードがある様な気がします。
昨日深夜帰って来たばかりで、中味の濃かった二日間の整理が充分出来ていませんが、取り合えずの僕の結論です。
2009年11月14日
街に図書館があるということ
「コリンザ」一階の広大な空きスペース。
ここだけを見るとどうしょうも無いような寂しさを覚えます。
しかし、コールセンター、あしびなー市民劇場、ハローワークと、人で一杯です。
一階に空きスペースが有るとはいえ、まだまだ一億円余の賃貸収入があります。
永年の懸案のその「コリンザ」の再生を巡っては様々な意見があります。
過去の壮大な負の遺産、今までずっと先送りしてきましたが、最早猶予は出来ません。
現在、大きな覚悟を持って、市はその処理を考えているようです。
もちろん、難題は山積みです。
しかし発想を変えれば、そこに次善の策が見えてくるような気がします。
何しろ、ミュージックタウンと並ぶコザの中心市街地の核施設です。
これを生かさない手はありません。
今中心市街地に欠けているものは何かと考えた時、そこに見えてくるものがあります。
それは、図書館です。
現在中の町にあるそれは、狭小で、現代の新しい、市民に開かれた多機能型の図書館像からはちょっと遠いものがあると思います。
単なる本を並べただけの図書館から、ネット社会にも対応した、しかも、子供にも高齢者にも訴えるものを持った図書館。
そして何よりも、地域コミュニティーの核にもなり得る図書館、そこに向けて変貌を遂げることの出来る施設。
車でしか行けない場所より、バスでも、歩いても行ける所に立地することの意味。
そして、それが中心市街地にあることの意味を考えた時、「コリンザ」の持つポテンシャルは高いものがあると思います。
現在教育委員会は、新しい図書館の建設に向けての審議会も発足させたようです。
郊外に土地を確保し、新たに作るという事は、永年の夢だったと思います。
しかし、せっかく中心市街地に広大な空きスペースが有るわけですから、次善の策としてそれを生かさない手はないと思います。
コンパクトシティーがこれからの都市政策の主流だということですから、それに見合う場所にまず立地を考えて頂きたいものです。
それと、沖縄市の重荷になっている「コリンザ」の問題が少しでも軽くなれば、一石二鳥です。
郊外に新築すれば、恐らく何十億と掛かるかもしれません。
財政政策上から考えれば、その何分の一かで済む案の方が、当面は良いのではないでしょうか。
将来財政にゆとりが出来た時、その時こそ、日本一の素晴らしいものを作る、その夢を持っても良いのかもしれません。
変化の激しい世の中です。
図書館のあり方も恐らく大きく変わって行く筈です。
ちょっと立ち止まってそれを見据える時間も必要ではないでしょうか。
2009年11月12日
単なる商店街から交流街へ
先客万来の銀天街、土曜日の交流サロンにまた新しい人が・・・
右側の二人、確か自転車で日本各地を旅している若者、いや大学生だったかな。
何しろ、その後飲みに連れて行ったのは良いのですが、名前を覚えていません。
一期一会の出会いでした。
左の方が北川君。
何と彼は修士論文のテーマをコザにしているようです。
専門は都市デザインのようです。
194センチの長身は、いやでも銀天街で目立ちます。
来週の火曜日まで銀天街に滞在するようです。
どのような論文に仕上がるのか楽しみです。
そしてこれは、先週の「コザクラ」での県内大学生の集まり。
「琉九祭」のメンバーです。
コザとの初めての出会いとなるイベントを控えて皆張り切っています。
中心市街地に今欠けているものといえば、やっぱり若者の姿でしょうか。
復帰直後、コザから大学が無くなってしまいました。
無くなって初めて気が付く、知の集積の大事さ、そして何よりも若者の姿が溢れているということの素晴らしさ。
今ではコザの人間はそのことを忘れてしまっていると思います。
しかし今回、県内9大学の学生がコザに集まってくれています。
若い力と斬新な発想で何をやってくれるか、期待と嬉しさで一杯です。
中心市街地の担い手は、過去、当然商店街が中心でした。
その時というのは、当たり前に病院、銀行、そして、行政機能も集積していました。
もちろん、小学校も廃校寸前どころか子供で溢れていました。
今で言うコンパクトシティー。
中心市街地には、生活に必要なあらゆるものが全て揃っていました。
ところが今や、その機能も風前のともし火です。
コザの場合、近いうちに警察署も移転の動きがあり、最早、中心市街地の公的な機能の喪失は避けて通れません。
当然、昔、中心市街地が担っていたコミュニティー機能もズタズタです。
その様なご時世の街づくり、一体全体、その責任の重さを誰が担うのでしょうか。
新しい発想が強く求められます。
そういう中、若い人たちが全国各地、或いは県内各地から集まってくれているという事の凄さ。
それをコザは大事にしなくてはいけません。
単機能の「単なる商店街」という発想から、「生活街」、そして「交流街」へと中心市街地が変貌を遂げていくこと、そこに今後の可能性が秘められているような気がします。
2009年11月11日
20年後の旧コザの人口は?
今は昔、マンモス校だったコザ小学校。
現在、一学年二クラスを維持するのに四苦八苦しているそうです。
しかも、僕らの時、一クラス60人近くいたクラスが今では30人余です。
それでも厳しいというのですから、本当に時代の流れを感じます。
団塊第一世代の僕らの時代の「コザ中学」、何と一学年18クラスもありました。
しかも、一クラス60名、そのうちの二クラスは62名もいたのです。
一年生だけで、総勢1082名。
その記録は最早破られる事は無いでしょう。
団塊第一世代の僕らの時代の学校は、分離また分離の繰り返しでした。
中学校だけでも二度の分離を経験し、高校でも同じ様なことが起こりました。
おかげで、初めての甲子園も、エースが分離した高校に移籍したおかげで、惨めな大敗。
コザ高校の唯一の甲子園の夢もほろ苦い思い出になってしまいました。
旧コザと旧美里村が合併して何年たったのでしょうか。
今や、旧美里村の方がはるかに人口が多くなりました。
よくよく考えてみると、合併したその時から、膨大な資本投下は、旧美里村に集中してきたと思います。
東海岸だけでなく、内陸部の開発も。
その結果、沖縄市全体としては、人口は合併当初よりも3万人以上増えたと思います。
人口を減らし続けている全国の地方都市の中では、ある意味特異な成功事例と言ってよいかも知れません。
しかし、市全体として人口が増えているのと反比例して、旧コザの中心市街地はどんどん人口が減ってきています。
冒頭で紹介した小学校の児童の在籍数の極端な落ち込み。
それが象徴的な減少です。
しかし事はそう簡単なことではありません。
子供が減るという事は、即ち、中心市街地が限界集落化しているという事です。
衝撃的な統計情報があります。
現在の各地域の世代別年齢構成、それが、20年後、30年後どう推移していくかを表した数字です。
肝心の資料を無くしてしまい、細かい正確な数字は言えません。
しかし、その数字を見た時のショックはよく覚えていて、大体の間違いのない数字は記憶から消えません。
何と、20年後には、旧コザの人口は3万人台になるのです。
確か、3万6千人ぐらいです。
そして、30年後には、3万2千人。
合併当初の半分以下になるのです。
もちろん、今後中心市街地に対する施策を何もしないという事を前提にした数字。
そしてあくまでも現在の人口動態を元にした数字です。
しかし、この数字の持つ意味、ある意味恐ろしい意味、それを真剣に考えなくてはいけないと思います。
今、そして今後、何もしなければその数字に限りなく近づいていく事でしょう。
その時、コザの人間の持っている「アイデンティティー」、いや、「コザ文化」と云われるものすら、最早過去の遺物として葬り去られていることでしょう。
何故今、中心市街地の活性化に新たなエネルギーをつぎ込まなくてはいけないか、それをこの数字は如実に表していると思います。
合併都市の切ない現実、そこには、単なる地域エゴでは片付けられない未来が待っています。
それが明るいものになるか、或いは暗いものになるか、今、そしてこれから試されます。
2009年11月09日
ちょっと良い話
沖縄市の消防本部隣にある「海賊工房」。
最近また新しい離れを作りました。
店はかなりの広さですが、その殆どをオーナー自ら手がけるほどで、大工の腕前も一流。
さてそのオーナーとは、テレビの釣り番組に毎週登場する「山城」君。
県内の釣りきちなら知らない人はいないといっていいでしょう。
その「海賊工房」の男子トイレに最近まで掲げられていたのがこれです。
否応なしに目に付きます。
昔、国語の時間に「言霊」ということを習ったのを思い出しました。
う~ん、確かにその通りかもしれません。
思わず反省!
そういえば、「噂をすれば影」とはよく言われることです。
つい最近もその様な体験をしたばかりです。
たぶん思い当たる人は多いかも知れません。
話は大きく変わります。
永い事ブログの更新を怠ってしまい、心配をかけました。
特別の理由はありません。
ついつい書きそびれると、気負いが先走ってしまい、面倒くさくなったというのが真相です。
その間、コメントをくれた人への返事も怠ってしまい、申し訳ありません。
これからまたぼちぼち書いていこうと思いますので宜しくお願いします。
2009年11月09日
アイモコが銀天街まつりに!
今年6月、初めての壱岐ツァーに参加。
県内で人気のハルサーミュージシャン(百姓のこと)アイモコのモコチャンの実家のある島。
予想以上に大きく豊かな島、そして歴史のある島。
海の幸も山の幸も豊かで、そして絶品でした。
しかし何よりのご馳走は、二晩にわたり繰り広げられた「アイモコ」のライブでした。
モコチャンの物真似を交えた絶妙のトーク。
そして、心温まる歌。
その歌詞は、大宜味の自然と農作業の合間に垣間見た様々な生き物たちの優しい光景。
あの嫌われ者の「アフリカマイマイ」もモコチャンの歌詞の中では何処か愛くるしいものに変わります。
その二人が、大宜味で始めた地域興しイベントが、毎月第二土曜日と日曜日に開催されている「江州ファーマーズマーケット」。
塩屋大橋の手前、「産業開発青年隊」に行く途中の山の中の集落の江州部落の公民館がその場所です。
沖縄がまだ貧しかった1950年代。
多くの移民がボリビアを初めとした海外に渡ります。
しかし、県内への開拓移民も盛んに行われました。
西表や石垣島、そして山原の国頭、大宜味にも組織立って行われました。
この江州集落もそういった人達の作った開拓部落の一つなのでしょう。
周りの森の光景を見ると、その開拓の先人達の苦労が少しは分かるような気がします。
その集落を盛り上げるための手づくりイベントは、他所ではちょっと味わえないほのぼのとしたものです。
売っているものに決して派手さはありませんが、何よりも心の通った暖かさを感じます。
アイモコの歌がそうさせるのでしょうか、何処か懐かしさと、田舎の原風景に出会ったような気がします。
ライブの最後は、集落の人が輪になって踊り、お客さんに感謝の気持ちを表します。
さて、そのアイモコの二人が銀天街にやって来ます。
12月5日、恒例の年末天ぷら大同窓会、銀天街まつりで総合司会とライブステージを努めてもらうそうです。
大宜見の開拓部落と銀天街、違うようでいて、地域興しにかける情熱は共通しているのかもしれません。
今年最後の銀天街まつり、盛大に盛り上げましょう。
2009年09月04日
ウークイの夜に
我が家のウークイも無事済ませ深夜の銀天街へ。
居酒屋「けんけん」の横に大勢の人。
実は、今年お亡くなりになった仲程さんの初盆の送りの催しでした。
林君が撮りためた懐かしい映像の数々。
おそらく、彼ら若手アーティストの一番の理解者だった仲程さん。
アーティストと地域の商店街との良き橋渡し役を果たしてくれました。
ハーモニカの得意な仲程さん、今年2月の銀天街まつりが最後の舞台となりました。
その形見のハーモニカを、身内の方がふきます。
懐メロ、童謡、途中目頭を押さえている人もいます。
暗い路地、旧盆の最後の夜。
アーケードの無くなった銀天街の路地の真上には、煌々とした満月・・・
そして、送りの宴も終わった丑三つ時、林君の作品のお披露目。
アーケードの無くなった路地の空高く、白い布、風にそよぐ網目状の薄い布。
そこに、先ほどの仲程さんの在りし日の姿が。
ウークイを終わった仲程さんが、天高く上って行く様な錯覚を起こさせる、不思議な空間が現れました。
映像と光のショーは、試行錯誤を繰り返しながら、午前4時を過ぎてもまだまだ続きます。
光の向き一つで、様々な変化に富んだ不思議な空間が、次々と作り出されていきます。
林君が言うように、それはまさに手品の様なものかも知れません。
一瞬一瞬の時間と空間の織り成すショー。
その下は、今回集まってくれたアーティスト達との交流の場に早変わり。
そのささやかな宴は、午前5時頃まで続きました。
あの世の人と現世の人が限りなく近くなる沖縄の旧盆の送りの日。
まさに今回のテーマの「クロッシング」に隠されたもう一つの場。
それを、今回の林君の作品に見たような気がした不思議な夜でした。
2009年09月02日
街をアート空間に変えるということ
路地に突然現れたその名もアーケードーム。
今年撤去されたアーケードの記憶を紡ぎます。
中に入り、上を見上げると、アーケードがあった頃の光景が360度のパノラマ写真に。
今回の「コザクロッシング」を象徴するような「かつおのぼり」。
本部市場からやってきました。
もちろん、初日のオープニングパーティーには、本物もやってきました。
空き店舗のシャッターには、アーケードがあった在りし日の銀天街のパノラマ写真。
藁科の邦ちゃんの傑作。
毎日少しずつ変わっていく作品。
最後にはどういう形になるか楽しみです。
旧盆期間中にはライトアップされた姿が見れるかもしれません。
スタジオ解放区の作品です。
アーケードが無くなって建物の全貌が明らかになった銀天街タワー。
チQ君が建物全体をペインティングしていきます。
実は、一階のシャッターを閉めると凄い絵が現れます。
去年インドネシアのアーティストが、最後の日の徹夜制作で残してくれたものです。
それとの一体感を意識してペインティングしたようです。
長い事空いたままだった店舗。
洗う事をテーマにする岩井君の作った空間。
とにかく最初は掃除から始めたようです。
その辺は別府での経験と共通する所があったのかもしれません。
何しろ、古い木造アパートを見事に蘇らせ、アートと居住空間に変えました。
別府でそれを目にした時の感動は今でも忘れません。
銀天街の建物、そして路地も、古いままでも、ちょっと手を加えれば、新しい輝く空間に生まれ変われます。
岩井君が手がけたこの店舗、塗り替えた白い壁にその想いが詰まっています。
新婚一週間目の夫婦の初の共同作業、ペンキまみれのそれは深夜にまで及びました。
真っ白い壁ですが、その表面には岩井君と奥さんの姿が見える様な気がしてなりません。
白い壁には、銀天街の多くの人達のセピア色の写真が貼り付けられています。
そのセピア色の周りの白い空間を、新しい白い空間が取り囲みます。
それこそ、今回の岩井君のテーマ、「Okinawa Bleach]の世界かもしれません。
そこに、街とアートが出会う幸せな時間が広がっている様な気がします。
2009年09月01日
過去と現在がクロッシング
旧黒人街を大勢の人間が殆ど無言で移動して行きます。
後ろの灯りは銀天街のアーケード。
携帯の写真ですから暗いのは当然ですが、逆に、その夜のイベントの雰囲気がよく現れているような気がします。
二年前、同じ場所で行われたパフォーマンスは大好評。
今年はどういう展開になるか、歩きながらも緊張が高まっていきます。
舞台は、そこだけ取り壊されずに残っている廃墟の様な建物の一角。
ロウソクが二本灯されているだけ。
小さなカセットレコーダーの音楽にあわせて、紗葉さんが肉声で唄います。
暗い会場にその声が優しく流れていきます。
周りは住宅街ですが、その一角だけが別の世界のようです。
紗葉さんの独白。
Snowとの出会い、そして現在が、静かに語られていきます。
時には、それが唄になります。
マイクを通さない声は、それこそ肉体の一部だということを改めて感じさせてくれます。
演劇が肉体表現の一種だとすれば、唄もまたそうなのでしょう。
紗葉さんの唄は、静かで優しく、そして何処か乾いている様。
しかしそのなかに、強い意思、そして強い自己主張を感じます。
物語は現在ですが、しかし、この場所の記憶が、それのみに終わらしてくれません。
そこは旧黒人街です。
戦後のコザの歴史が詰まっている所。
ここを通り過ぎて行ったたくさんの人の数だけのドラマがあります。
僕らの世代、そして銀天街に今でも住んでいる人達にとっては、そのドラマの一端が思い浮かびます。
今では何処か懐かしさすら感じるそれです。
時として記憶は甦ってきます。
しかしそれは、懐かしさというだけでは済まされない重い時間です。
二年前もそうでしたが、今回の紗葉さんのパフォーマンスにも、過去と現在を繋ぐ時間が流れているような気がしました。
場所の持つ記憶の力。
ふだんは何気なく通り過ぎているその場所が、ある日突然、演劇空閑として輝きます。
それを思い起こさせてくれた紗葉さんのパフォーマンス。
暗い道を引き返して行く帰り道。
過去と現在の時間が奇妙に「クロッシング」しているような錯覚にとらわれました。
2009年08月29日
クロッシングする街、人
先日銀天街での撮影を終えたばかりの遠藤監督とそのスタッフの一行。
はるばるニューヨークからの來沖です。
カメラマンは、カンヌ映画祭での受賞経験もある一流の人です。
先日のオープニングパーティーにも参加してくれました。
去年はフランス、インドネシア、中国、ドイツと、様々な国の人を受け入れてきました。
先日のパーティーの席には、オーストラリアからの数名のお客さんもいたようです。
古い商店街ですが、意外にも多彩な人達との交流の場となっています。
今年のアートプロジェクトは、その様な実績を踏まえた発展的なものに仕上がりつつあります。
石垣島、本部、そしてゴヤ地区と、銀天街だけに止まらない面的な広がりを持っています。
まさに、「コザクロッシング」のテーマ通りの面白さ。
そして、本日の午後6時からは、八重山の唄者のライブ。
おそらくコザ初登場だと思います。
アートプロジェクトを介して、街と人がクロッシングしていきます。
その流れを大事にしていきたいと思います。
そして、翌30日には、山里さんのパフォーマンスがあります。
黒人街だった昔の記憶を呼び覚ました二年前のパフォーマンスは大好評でした。
ふだん何気なく見ている崩れそうな建物が、見事なまでに劇場空間として蘇りました。
今年はどの場所を劇場空間に変えてくれるのでしょうか。
期待大、そして必見です。
まだまだ続く「コザクロッシング」、見逃せません。
2009年08月27日
人と人がクロッシングする街
いよいよ始まりました。
昨夜の賑やかな宴を静かに見守っている稲穂。
今回のプロジェクトの一環の企画です。
29日の朝10時からは、屋上の稲を守るための「案山子」作りのワークショップもあります。
たくさんの親子の参加ををお待ちします。
「未完」というタイトルの作品。
白い幕が、次のステージの展開をまっているかのようです。
場所は銀天大学の通り、元花屋さんがあった狭い建物です。
今後何年かかけて、それを生き返らせていくそうです。
どう変わるか楽しみです。
琉大のティトゥス先生とゼミ生の住友君。
オープニングの朝6時までかけて完成?、いや未完?
ややこしいのですが、二人はもう既に次のステージを頭に思い描いているようです。
その中味は秘密。
期待しましょう。
オーピニングパーティーは、東門市長も出席する盛大なものでした。
その宴もたけなわの頃、会場を移しての岩井君のパフォーマンスがありました。
国道の拡幅工事ですっかり廃墟のようになったバス停後ろの広場。
すぐ横を国道330が走っているのですが、そこの会場だけが闇に包まれています。
そしてもうすぐ取り壊されるビルの壁面に映像がリアルタイムで映し出されていきます。
けいちゃんの優しい歌と3線の音色が、静かに闇の空間を漂うかのように流れていきます。
「Okinawa Bleach]というタイトルの示すように、岩井君が様々なものを水槽の中で洗っていきます。
日常に溢れている様々な品々。
豆腐もあれば、この映像の様な魚もあります。
ひたすら洗剤で洗ってはつぶします。
その様子がビルの壁面一杯に映し出されます。
静かに始まったその様が、やがてアングラ演劇のような緊張感に富んだパフォーマンスに変わります。
岩井君、とうとう自らの頭を水槽の中に突っ込んでしまいました。
髪の毛が水槽の中でユラユラと生き物のように動きます。
その様は、やがて取り壊される古いビルそのものを洗っているかのようです。
洗うという行為で、物を変え、そして自らを変えていく。
今まさに古い建物が次々と消えていく銀天街、その再生を考える過程を奇しくも象徴するようなパフォーマンスでした。
パフォーマンスが終わり、再び会場に移動。
東京での結婚式の三日後に沖縄入りした二人のために、ささやかなお祝いの席が設けられました。
二人には秘密にしていたようで、手づくりケーキと花束贈呈には嬉しい驚きがあったことでしょう。
末永い幸せを祈りたいと思います。
様々な人が行き交う今回の試み。
昨夜の宴でも新たな交流が生まれ、そして始まりました。
29日(金)の夜6時からは、八重山との初交流のライブがあります。
「八重山唄者」のケンヤ・マルセイユ、前花雄介、YU-CHANの3名が銀天街に。
島で暮らす3名の唄に八重山の息吹きを感じ取って下さい。
長丁場の今回のアートイベント、まだまだ続きます。
最後の夜も昨夜のかちゃーしーの時のように盛り上がりますように・・・・・
2009年08月26日
路線バスの停留所の複線化を
写真は、ある日のゴヤのバス停の様子。
片側2車線の一つが3台のバスで埋まっています。
当然一車線はつぶれているわけですから、交通渋滞の原因にもなります。
しかし、ことは渋滞だけの問題ではありません。
自分の待っているバスにもし降りる人がいなければ、3台目、4台目のそれは、無常にも停車せずそのまま素通りです。
沖縄市を貫く国道330号線は、実はバス路線が集中している所です。
退職してから専らバスを利用しています。
そこから、車中心の生活では分からなかったことが見えてきました。
実は、沖縄のバスは意外と便利なのです。
特に、330号線の沿線の住民にとってはこれほど便利なものはありません。
自宅近い停留所でおよそ10分以上待つことは極めて稀です。
しかし問題は、東西を貫く路線網です。
その路線網の便数の少なさがネックになって中々自家用車からの乗り換えが進んでいません。
そして、バス路線網の広報宣伝の場が余りにも少なさ過ぎます。
実は、それさえ分かっていれば、沖縄中何処でもバスで行ける筈です。
そして観光客にも自信を持って教える事が出来る筈です。
要は、沖縄市にバスセンターの様な施設が無いという事がネックになっているような気がします。
何も大規模な箱物を作れと言っているのではありません。
それこそ、費用対効果の面から考えると現実的ではありません。
むしろ、現在のバス停をセットバックして、平行に4~5台ぐらいが同時に停車出来るような拡幅の方が良いでしょう。
現実に、国道の拡幅計画があると聞いています。
ゴヤからコザ十字路までの全面的な拡幅の要望もあるようです。
しかし、その実現までの時間と費用を考えると、少なくともゴヤとコザ十字路のバス停の複線化の方が実現性は高い様な気がします。
その複線化が実現すれば、そこを拠点に、新たな路線網、そしてコミュニティーバスの運行にも道を拓くことが出来るかもしれません。
現に、その可能性を見据えているNPO団体もあります。
過去の実証実験の失敗の原因を充分検証することから、新たな可能性が出てきます。
一度の失敗に懲りずに、再度論議の輪を作る事が大事な事だと思います。
バスに乗らない人の意見の大部分を占めるのが、「定時制」だと思います。
もちろんそれを否定はしません。
しかし、それは一方的にバス会社だけの責任とは言えません。
先ほどの写真のバス停の様子を見てください。
現在のバス停の構造では、バス停での時間調整など不可能です。
現実にバスを利用して分かったことは、意外に時刻表通りだということです。
もちろん、それには理由があります。
具志川のバスセンターから近い距離のバス停だからです。
その誤差は遠距離になればなるほど大きくなっていくのかもしれません。
しかし、バスを利用して分かった事は、時刻表の時間より早く着くバスの意外な多さです。
もちろんあらかじめ渋滞の時間を加味していることによるズレだと思います。
慣れれば、利用する方も早めにバス停に着けば良いと思われるかも知れません。
しかし、事はそう単純ではありません。
そのことが、バスの定時制の神話を崩すのです。
お客さんの信頼性を失わせてしまうのです。
定時より早く着けば待つぐらいのことをしなければ、時間に対する信頼性を損なう事になります。
那覇と違い渋滞の少ない中部では、登りの路線は、定時運行がほぼ可能ではないかと思います。
特に、乗客の少ない時間帯は、遅れより早いことが問題ではないでしょうか。
何故、少なくともコザ十字路とゴヤのバス停の二箇所の複線化が必要かという理由の一つがこれです。
時刻表通りの時間に行けば確実に乗れるという信頼性があれば、例えその時間が多少遅れても、人は納得するものだと思います。
そのためにも、ミニバスセンター的なものが必要なのです。
そして、そこにはコミュニティーバスの発着場もあり、それに付随してバス路線網の案内業務をする小さな施設があればなお良い。
中心市街地に人を呼び込むため、そして将来の高齢化に対応するためにも、公共交通網の充実は避けては通れません。
もちろん、地球温暖化を防ぐ為にも。
2009年08月25日
銀天街音頭の記憶
昔、沖縄市の2大祭りと云えば、「全島エイサー祭り」と「沖縄祭り」だったと思います。
「全島エイサー祭り」の方はその後、「オリオンビアフエスト」との併設でますます賑やかになっていきました。
しかし、「沖縄祭り」の方はだんだん地味になっていき、名称も「沖縄国際カーニバル」に変わり、開催場所もゴヤ中心になってしまいました。
セピア色の写真は、「沖縄祭り」のパレードでの銀天街婦人部の姿です。
当時の祭りの主会場は、現在の市営球場でした。
そしてパレードの出発場所はというと、美里の現在MACのあるあたりです。
江戸のぼり行列だけでも何百人という大パレードです。
おそらく総勢2千名を軽く越える人間が、カマラの急坂を越えて約4キロの道のりを延々と練り歩く様は圧巻でした。
当時、中心市街地の商店街は活気に溢れていて、今みたいに空き店舗なんて全く無い時代でした。
各通り会は、それこそ趣向を凝らした山車やら踊りで、沿道の市民に熱心にアピールしていました。
銀天街商店街の組合の行列は、その中でもひときわその参加人数で際立っていました。
その当時、毎年パレードの整理係をやっていたのでよく覚えています。
写真に写っているのは、その半数にも満たない行列です。
僕の記憶では、毎年百人以上の参加があったと思います。
何しろ、青年部の数も50名ぐらいいる時代です。
そして街全体が元気のある時代です。
ひょっとすると200名ちかくの人がパレードに参加していたかもしれません。
今ではその記憶も遠い昔のようになってしまいました。
しかし先日、銀天街の組合事務所での会合の後、参加者全員で起立して歌った歌が、あの懐かしい「銀天街音頭」だったのです。
仲田君の話では、最近の組合の集まりでは、決まってこの歌を歌うのが習わしになっているそうです。
銀天街華やかなりし頃の歌ですから、作詞、作曲も県内の著名な方の作です。
もちろん、あの華やかなパレードにも使われていた曲です。
今では、その曲にのって踊る振り付けを覚えている方も何人もいないかも知れません。
しかしもしいるのでしたら、その復活プロジェクトを立ち上げてみるのも面白いかもしれません。
当然レコードは残っていない筈ですから、新しい感覚のアレンジで曲作りをしても良いかもしれません。
何しろ、商店街がオリジナルのテーマソングを持っているということは凄い事です。
単なる記憶の片隅に追いやるのではなく、今の時代に復活させるという事は、とても意義深いことです。
次の銀天街のテーマになりそうな気がします。
最後にその「銀天街音頭」の歌詞を紹介します。
2009年08月25日
アサヒアートフェスティバルいよいよ26日から
今年の「アサヒアートフェスティバル」、どこか違います。
アート蜜貿易を名乗るだけあって、銀天街だけではなく、遠く八重山、本部、そしてゴヤと、色んな地域とリンクします。
21の展示企画、八つのライブ、そして会期も12日間に及ぶ野心的な試みです。
昨日行われた焼き豚パーティーには、全国各地から既に会場入りしている若いアーティスト達も参加。
何度も銀天街を訪れている人もいれば、今回初めてという人もいます。
出身地も様々。
北海道、福島、福井、東京、長野、福岡、東京、そして明後日には台湾からのアーティストも。
もちろん地元の参加者も琉大、県芸大、そのOBと実に多彩なメンバー。
その多くが銀天街に滞在して製作中。
いつもの静かな商店街に突然の活気が戻ってきました。
今回も幾つかの空き店舗、長い事閉まっていた幾つかの店を利用します。
きれいに掃除されたがらんどうの空間が、この2~3日でどう変わるか楽しみです。
この空間は、東京の岩井君が企画するスペースになるようです。
結婚式から一週間後の來沖で、ちょっと可哀相だと思っていたら、本日新婚の素敵な奥さん到着です。
勇気百倍というところでしょうか。
東京の菊原君の製作中の展示スペース。
スタジオ解放区の林君の同級生、もう何年も銀天街に通って来てくれています。
今ではすっかり銀天街住人化、地元の人にも何の違和感も感じさせません。
今回の試みが今までとちょっと違うのは、会場が面的な広がりを持っていることでしょう。
街全体を周遊する感じになりそうです。
これは、今年訪れた別府と横浜黄金町の例にならったものだと思います。
そしてそれは銀天街のみに止まらず、ゴヤ地区にまで広がっています。
これも例年と違う試みです。
アートを介して中心市街地の二つの地区が結びつくというのは素晴らしい試みです。
そしていよいよ今日の本題。
去年の栄町での出会いから始まった本部市場との交流、その成果を生かした「カツオの夕べ」、そしてオープニングパーティーが、26日午後6時半から行われます。
場所は今年開けたばかりの「街の駅、たーぶっくわ」です。
那覇向けバス停から一軒奥に入った建物です。
本場本部直送のカツオ料理が色々楽しめるようです。
また、この場所で期間限定で営業する「ピンクバー」のお披露目の日にもなります。
多くの人のご来場を心よりお待ち申し上げます。
