2009年06月30日
鎮魂の6月、そして宮森小学校・・・
沖縄の6月は鎮魂の月。
沖縄各地の声無き無数の慰霊塔、その前での慰霊祭。
もちろん、沖縄戦の犠牲者を悼むためのものです。
しかし今日30日のそれは、戦後、1959年の出来事の為のものです。
資料展の写真に写っている事故直後の惨状。
宮森小学校手前の集落に落ちた戦闘機は、そのまま多くの住宅をなぎ倒しながらバゥンドして学校へ。
硬い福木の木に守られていた校舎を一瞬の内に瓦礫と化してしまいました。
当時貧しかった沖縄、学校の校舎の中にはトタンぶきのものが数多く有りました。
その校舎は跡形もなく燃えてしまって、この写真には写っていません。
三つの教室が全焼、二つの教室が半焼。
また住宅17棟、公民館1棟も全焼、そして8棟が半焼という、稀にみる大惨事です。
燃え焦げている集落の様子。
米兵の姿が数多く見られます。
事故直後、石川集落に向かう道は、残らず交通止め。
親戚の安否を確認する為には、徒歩で往復しなくてはなりませんでした。
親父が親戚、知人の安否を確認するために石川に向かいました。
前年コザに引っ越した僕らの家族でしたが、実は石川には数多くの親戚がいました。
そして何より、戦闘機が落ちたのは、前の年まで僕ら家族が住んでいたすぐ裏の集落だったのです。
距離にして20メートルもあるかないかです。
運命の不思議さを感じました。
写真を出すのに躊躇しました。
事故で亡くなった同級生です。
しかし、50年の節目、記憶に残さなくてはなりません。
一緒に遊んだ日々の記憶は永遠に消えません。
男の同級生は彼一人だったのですが、その他にも女の同級生が二人亡くなりました。
そして、ひどい火傷の後遺症を負った同級生も何名かいます。
もし僕らの家族が前年コザに引っ越してなければ、僕と下の妹弟二人もどうなっていたか分かりません。
資料展会場で何十年ぶりかにあった同級生。
事故当時の惨状を改めて彼から聞きました。
実は、僕が宮森小学校を訪れるのは、本当に何十年ぶりかだったのです。
小学校の良い思い出もたくさん詰まった場所の筈ですが、何故か気が重く、足が向きませんでした。
会場で、同じ様な想いを持っている人と話しをする機会がありました。
彼は当時3年生、事故の時、給食のミルク当番だったそうです。
そして事故。
左足に深い傷を負いました。
多分意識を失ったのでしょう、その後の記憶が全くといっていいほど無いそうです。
そして彼も、50年という節目の日が来るまで、一度も宮森小学校に足を踏み入れる事が出来なかったそうです。
会場の入り口に、亡くなった17名の方の遺影があります。
しかし、半数近くの方の遺影がありません。
恐らく遺族の方から提供を拒まれたのだと思います。
そこに、50年という年月を経ても変わらない遺族の無念さが滲み出ているような気がして、真っ白い、名前だけの遺影に合掌です。
平和資料展は7月12日まで行われます。
50年という時間の長さと短さを、それぞれが感じる空間です。
ぜひ足をお運び下さい。
あらためて合掌・・・・・・
2009年02月06日
200年前に空を飛んだ人がいた
1989年の琉球新報の記事です。
その年の3月9~11日の三日間、沖縄市民会館で「飛び安里」をテーマにした市民劇の公演がありました。
観光協会の20周年記念事業の一環の企画でした。
実はその何年か前から、沖縄にライト兄弟の100年前に空を飛んだ人がいたという事が話題になりました。
首里王府の花火師だった安里家の人というのは各地の伝説で分かってはいたのですが、飛んだ場所が何処かで大論争になりました。
当時は南風原説が最も有力だったのですが、しかし、沖縄市、旧越来村にも安里家にまつわる伝説が数多く残っていることが判明しました。
飛んだ場所も津嘉山ムイだけではなく、知花グスク、現在のゴヤの高台等々、何箇所もあります。
そして、「飛び安里」が現在の古謝部落の海岸に着地したのを見たという方の子孫の証言まで出てきました。
しかし、同様な伝説が首里、南風原にもたくさん残っている事も知っていましたので、これは何としてもフィールドワークをしなければならないという事で、改めて各地の「飛び安里」伝説の地巡りをしました。
案内してくれたのは、当時の琉球新報中部支社長の山根さんです。
一緒に行ったのは、僕と現在県議の玉城満さん。
フィールドワークをして分かった事は、「飛び安里」が実に多くの場所で飛んだという事でした。
首里だけでも何箇所もあり、もちろん南風原も同様です。
それに沖縄市の分も合わせると10何箇所にものぼります。
首里、南風原からの帰途、沖縄市に向かう車中で、僕ら3名は次第に或る確信みたいなものを共有していました。
フィィールドワークをした場所の全てが、飛んで落ちても絶対死なない地形でした。
崖の下がなだらかな斜面で、大木の育たないススキや灌木しか生えない土壌で、落ちてもクッションが効きます。
しかも上昇気流の発生し易い場所です。
現在のハンググライダーの飛ぶ場所を想像して頂ければよく分かると思います。
しかし、「飛び安里」は、崖から飛んだばかりではなく、実は、ガジュマルの木からも、そして越来では何と屋根の上からも飛んだという伝説が残っているのです。
そうです、彼は単に崖から飛び降りるだけではなく、人力で制御して飛び立つ事すら考えたようです。
越来に伝わる伝説では、屋根から飛び立った「飛び安里」が余りにも高く舞い上がったので、下で命綱を握っていた妻が驚いて強く引っ張ったので、部落の中に落下したという逸話も残っているそうです。
そこから類推する彼の飛び機は、恐らく人力制御のグライダーの様なものだったのでしょう。
最初の頃からすると相当な進化を遂げたものだったと思われます。
もしその頃、エンジンなどの動力があれば、恐らくライト兄弟の様な飛行機にまでたどり着けたかも知れません。
しかし、時代から余りにも進み過ぎていたのでしょう。
周りの人たちからは、「鳥(トゥイ)マジムン」と言われて恐れられ、或いは蔑まれていたようです。
マジムンというのは、化け物、或いは魔物という意味の沖縄の言葉です。
そこに、僕ら3人は、「飛び安里」伝説の謎を解く重要なヒントが隠されている様な気がしました。
安里家が、花火師という重要な地位にありながら、何故首里から南風原、そして越来に流されたのか。
恐らく、空を飛ぶという、当時としては看過できない考えが、世の中を騒がすことになる事を恐れていたからではないでしょうか。
それが、あれほど各地に「飛び安里」伝説が残っているに関わらず、一切公式の記録が無い理由だと思われます。
実は、各地の「飛び安里」伝説の人物は皆違うのです。
首里では「周冨」、南風原では「周當」、越来では「周翔」。
恐らく親子3代のつながりだと思われます。
最初に飛ぶ実験を始めたのは、首里の「周冨」でしょう。
場所も今の弁ヶ嶽あたりではないかと思われます。
その時は、単に鳥を模した羽をつけて飛び降りただけだったかも知れません。
それが息子、そして孫に受け継がれていく間にだんだん進化して、とうとう屋根の上から飛び立ったという伝説が残るほどの成果を生みました。
歴史には或る意味想像力で補わないと理解出来ない部分もあると思いますが、「飛び安里」伝説がまさにそれに当たるのではないかと思います。
1989年の芝居は、僕ら3名のフィールドワークから生み出されたまさにその結晶の様なものでした。
本番の何日か前の越来公民館での練習風景の模様です。
周冨役は、今は亡き大宜味小太郎さん。
真ん中は現在も活躍中の北村さん、そして右が島さん。
素人役者が多い中、プロの凄さを見せてくれました。
特に大宜味さんの物腰の柔らかい謙虚な姿勢に、名人のオーラを感じたのが今でも記憶に残ります。
越来湯の近くに「周翔」は住んでいたといわれています。
写真のガジュマルの木の左側の道向こうです。
今では駐車場になっています。
そしてガジュマルの木の隣には、湧き水の出る「カー」(井戸)になっていて、拝所もあります。
ひっそりとしたたたずまいです。
昔の城下町の名残りと「飛び安里」の偉業を偲ぶ隠れた名所です。
是非一度は訪れる事をお勧めします。
2009年02月05日
幻の城下町
城前公民館にある越来城(ぐすく)跡の記念碑。
旧越来村に城があったことを知る人は意外に少ないかも知れません。
その痕跡は余りにも少なく、住宅が密集しているそこが城跡だとはとても信じられないからでしょう。
首里との密接な関係を裏付ける関連年表を見るだけでも、凄い歴史を刻んできた城だった事が伺えると思います。
そこが徹底的に破壊されてしまったのは、実は戦後なのです。
戦争が終わった後、その城壁の石を道路工事のための砂利として米軍が利用しました。
当時湿地帯だったコザ十字路近辺の地盤の強化用に使われたと言われています。
現在の国道330の下にそれがまだ埋もれているかも知れません。
多分ここが本丸だったのでしょう。
現在は幼稚園になっています。
丸裸になった城跡は、その後民間に払い下げられ、あたりの地形も一変してしまいました。
しかし跡形も無く破壊された城跡の周りには、この様な趣の民家がまだたくさん残っていました。
石垣に囲まれた民家の周りを福木などの大木が取り囲みます。
屋敷林は、碁盤目状の集落の道に涼しい陰を作っていました。
ちょうど現在の竹富島の集落に良く似ていたと思います。
そして城跡のすぐ側には西の御嶽があり、そこは昼でも暗いうっそうとした森になっていました。
子供が2~3名でも抱えきれない巨木がたくさんありました。
子供の頃、毎年写生大会でよく来ていた場所で、今でも僕の眼に鮮烈に焼きついています。
そこは現在の越来中学校、小学校になっています。
最近見かけた伐採された大木の痕跡。
あれほど豊かな緑で覆われていた道も、そして石垣も、道路の拡張でどんどん姿を消してしまいました。
この写真の木はその最後の生き残りともいうべきものでした。
それもとうとう切られてしまいました。
今や幻と化した美しかった城下町、しかしその記憶は永遠に僕の脳裏から離れません。
2008年10月02日
我らがバブルの日々よ
ゴヤ大通りにあるビル、昔、その一室に証券会社がありました。
今よりゴヤがもっと賑やかだった頃、そのビルを人の列が、まるまる一日取り囲む日がありました。
記憶違いかも知れませんが、確か平成のスタートの日だったと思います。
そうです、時はまさにバブル絶頂期、日本中がマネーゲームに狂奔していた時です。
土地の値段はどんどん上がり、株もまた天井知らずです。
新規上場、増資の時など、公募価格を軽く上回る状態が続き、証券会社にとってはまさに我が世の春。
企業にとっても増資が簡単に出来、物づくりの現場の人間より、財務担当の部署の人間の方が評価されるという逆転現象が顕著な世の中でした。
それで儲かった金を設備投資と新規の研究開発に廻してくれていたら、まだ救えたかも知れません。
しかしその多くは、不動産投資に向かいました。
特に、アメリカのゴルフ場やら高層ビルの買いあさりに走りました。
また、ヨーロッパの印象派絵画を破格の高値で買いあさったのもこの頃です。
そしてバブルの波は、企業、個人だけでなく、地方自治体をも襲いました。
豪華な庁舎や公共施設が次々と建てられていきます。
誰も、本当に誰も、そんな状態が永遠に続くと信じて疑いませんでした。
日本経済の「土地本位制」が崩れるなんて、そんな馬鹿なことが起こるということは絶対に無いという確信を皆が共有していたのです。
問題は、自分たちがその流れから取り残される事です。
その波は、もはや誰も止めることの出来ない、次々と来るうねりの様なものとして個人をも襲います。
本当のうねりだったら皆逃げる筈ですが、その時のうねりは、単なる波ではなく、キラキラ輝く黄金色をしています。
逃げるどころか、サーファーの様に自らそこに飛び込んで行きます。
そんな時、沖縄電力の新規株の一般売り出しがありました。
マスコミ等でも盛んにあおる様な記事が続きます。
新規上場株が下がるということは絶対に無いという風潮の時です。
今まで証券会社の門を入ったことも無い一般大衆、その人たちが一斉に動きます。
売り出しの前日はおろか、その何日も前から、証券会社の前に並び始めます。
年齢層も多彩、お爺さんから大学生、主婦まで、辛抱強くじっとその日を待ちます。
もちろん一人で並び続けるのは無理ですから、ちゃんと交代要員も確保しています。
あぁー、今考えると何て馬鹿な事をしたのかと思うのですが、僕らもその列に加わっていました。
同級生だけの模合いの積立金で何株か買おうという結論になり、交代で、徹夜してその渦の中に身を置きました。
確か寒い夜で、小雨もぱらついていたと思います。
厚着してじっと座り込んでいました。
しかし翌日の朝、整理券を渡されて、その番号を見たとき、僕らの苦行がたぶん徒労に終わると確信しました。
とても買えるような順番ではありませんでした。
その時大量に買ったのは、或る建設会社でした。
実は、前の方に並んでいた若い子たちは、その建設会社が動員したアルバイトの学生たちだったのです。
殆ど一社の買占め状態です。
ちょっと頭にきました。
しかし諦めるしかありません。
眠い目をこすりながらその場を後にします。
翌日の同級生の模合の席は、悔しさに皆の愚痴のこぼし合いの場になりました。
そして次の投資対象の検討に入ります。
そこからまた僕らのバブルの日々が続くことになり、まさに失われた10年が始まります。
その苦難の日々を乗り越えるのに多くの犠牲もはらうことになります。
しかし、その時は誰もそれを予測出来ませんでした。
そのことはまた次の機会に廻します。
さて久しぶりに、本当に久しぶりに新聞の株価欄を見てみました。
沖電株が5270円です。
今ではもう記憶に全然残っていませんが、確か当時の売り出し価格は、今の何倍かしていたと思います。
あの時買えなかったことは、その時は不運だと思っていました。
波に乗り損ねたと思いました。
しかし現在、アメリカの住宅、金融バブルが粉々に弾けた現状を見る時、波に乗る怖さを改めて思い知らされます。
バブルの熱狂の怖さ、大衆心理、いや群衆心理の恐ろしさ。
その只中に居る時の判断力の麻痺した状態の怖さ、それを思います。
恐らく今後来るであろう世界的な同時不況の只中でも、我を見失わずに地道に歩くことが大事なことになってきそうです。
それが僕らがバブルの時学んだ大きな教訓です。
自然の摂理で、波はいつか引きますし、また押し寄せます。
人生をそれに重ねあわす発想こそ大事な視点ではないでしょうか。
2008年04月07日
コザの時間の闇へ
コザを語るときに欠かせないのが「コザ暴動です。
ヒストリートの新聞資料、焼打ちの車の台数が60台以上となっていますが、僕の記憶では確か83台だと覚えています。
確かにコザにとっても沖縄にとってもあの事件は、永久に忘れることの出来ない歴史の一こまです。
1970年の前後というのは、まさに世代わりと言うににふさわしい数々の出来事が次々と起きました。
その中には本当に忌まわしい事件も数多くありました。
婦女暴行殺人、タクシー強盗殺人の様な凶悪なものから、単なる強盗、窃盗のようなものまで様々です。
マリュワナや麻薬も簡単に手に入るような状況で、拳銃などの武器の横流しもかなりあったと思います。
タクシー代の代わりに拳銃を差し出す米兵までいた時代です。
その時代沖縄中がそういうような状況だったのですが、特にコザはひどかったと思います。
立て続けに殺人事件が起きたこともあります。
しかし当時は治外法権、捜査の制約は今とは比較になりません。
悔しいことに、復帰を挟んだ前後の凶悪事件の何件かはもう既に時効です。
どうしても浮かばれない霊が、今でもコザの街をさまよっているような気がしてなりません。
そしてコザ暴動の前にはまた、米軍がからんだ交通死亡事故が何件もありました。
しかし驚くことにその何れもが無罪判決です。
当時は軍法裁判の時代です。
陪審員は全てアメリカ人、公平な裁判なんて望むのが無理です。
今に続くアメリカ民主主義のダブルスタンダードの時代があからさまに見える時代でした。
そう、コザ暴動の前はそういう怨念と憎しみが、静かに深くひそんでいる時でした。
しかしコザの歴史にはまた別の側面もあります。
とかくアメリカとの対比、対立で考えられることが多い中、沖縄の中、コザの中にも住民どうしの対立、差別、矛盾があります。
実はコザ暴動の本当の姿は、それが終わった後を見ないと分かりません。
暴動の時の凄まじい高揚と住民どうしの一体感、連帯感が、終わった後は内部対立に形を変えます。
市長の襲撃事件にまで発展したぐらいのすごいことになります。
あの時のやるせなさと虚しさは今でも覚えています。
しかし僕らはそのことに出来るだけ触れないようにしてきたと思います。
それがコザ~ンチュの優しさと、その後の復帰の混乱を乗り越えてきた自信がもたらしたのかは定かではありません。
しかしとにかく僕らはそれを克服して今に生きています。
そのような時、70年の前後の沖縄の、コザの時代の闇を暴き、えぐり出すような小説が現れました。
作者は馳星周、1965年北海道生まれの人です。
当然その当時の沖縄、コザを知る由も無い人です。
しかしその取材能力と洞察力には脱帽せざるを得ません。
60年代後半のコザの雰囲気をよく描いています。
そして物語を貫く時間軸に僕らは否応なく引き込まれてしまいます。
それは歴史の闇と同時に、僕ら自身の時間軸の闇をもさらけ出していきます。
しばらく忘れていたものが、鮮やかに蘇ってきます。
これ以上書くとこの小説をこれから読む人の邪魔をすることになります。
この小説は当時を知らない人が読んでも、コザの持つ歴史の闇の一端に触れることが出来ます。
またその時代を生きた人にとっては、改めてコザを、沖縄を考えさせてくれるきっかけになるかもしれません。
とにかくお勧めです。
2008年02月07日
阪神優勝祝賀会の主催者は前科20犯
春のキャンプシーズンらしい話題を一つ。
写真は銀天街の居酒屋「けんけん」です。
その騒動は、阪神タイガースが久しぶりにリーグ優勝をした何年か前の出来事です。
関西のみならず日本中が大騒ぎしたその夜、銀天街でも盛大な祝賀会が催されました。
本当の阪神ファンだけでなく、にわか阪神ファン、ニセ阪神ファンも一緒に「六甲おろし」の大合唱。
飲めや唄えの大宴会だったそうです。
そうです、集まった人の目的は別にあったようです。
それは当日振舞われた「ヤギ汁」、沖縄の言葉で「ヒージャー汁」、それがタダで食べられるのです。
実はその山羊の肉は、関西なまりの男が「けんけん」に持ち込んだものです。
マスターに阪神の優勝を皆で祝って欲しいということで、ウチナーンチュが大好きな山羊肉をどっさり寄付したのです。
もともと山羊が好きなマスターはさっそく調理に取り掛かり、さらにお店の常連さん、銀天街のメンバーに総動員を掛けました。
そして前述の大宴会が始まったのです。
当日は「六甲おろし」の大合唱がいつ尽きるとも無く延々と続いたそうです。
しかし物語はそれで終わりではありませんでした。
「六甲おろし」が高々と鳴り響い「たけんけん」に、何日か後に突然刑事が尋ねてきました。
怪訝な面持ちのマスター、しかし次の瞬間真っ青、頭はパニック。
何とあの山羊の肉は盗難品だったのです。
犯人が逮捕されて、あの夜の大宴会のことを自供したのでしょう。
それで「けんけん」に裏を取りに来たというわけです。
事情聴取はマスターだけに終わりませんでした。
当日「ヒージャー汁」を食べて、「六甲おろし」を唄った他のメンバーにまで及びました。
「君は何杯食べたのか」と、かなり細かいことを聞かれたそうです。
そして「ヨモギ」、沖縄の言葉で「フーチバー」はどれぐらい入れたのかとしつこかったそうです。
何と犯人は山羊だけではなくて、ヨモギまでも盗んできたのです。
これにはマスターもびっくり。
山羊汁にヨモギが定番だということまで知っている関西人、実は奥さんがウチナーンチュだったそうです。
「けんけん」にはそれまで何回か二人で来ていたそうです。
人の良いマスターもとんだとばっちりを食ったものですが、当日動員されて「六甲おろし」を唄った人間はもっと悲惨です。
その後犯人の顛末がどうなったかは誰も知りません。
ただ、刑事から聞いた話だと、その男は前科20犯の犯歴を持っていたそうです。
しかしどこか憎めない、熱烈なタイガースファンだったことだけは確かなようです。
今年阪神タイガースが優勝した時は、また銀天街の「けんけん」に顔を出すかもしれません。
その時もし「ヤギ汁」が出たらちゃんと確認してから食べましょう。
2007年12月22日
コザ十字路「テーラー」の記憶
銀天街の上の通り、国道沿いにまだ残る昔の「テーラー」の名残りの店。
僕がコザ高校に通っていた1960年代の中頃、この辺りには30軒、いやもっと多くの仕立て専門の「テーラー」がありました。
当時はアメリカ人向けの仕立て屋は「テーラー」、沖縄人向けのそれは「洋裁屋」と名称も住み分けが出来ていました。
また当時は香港から来た男性の仕立て屋さんもたくさんいました。
彼らは主にゴヤ近辺で店を構えて、主にアメリカ人の白人相手の商売をしていたと思います。
それに対して、コザ十字路の「テーラー」のお客さんは完全に黒人だけで、店の経営も沖縄人だけです。
まだ人種差別の激しい時代で、やっとキング牧師達の運動が起こりつつある時です。
しかしまもなくマルコムXの「ブラックパンサー」が出てくる、そのちょうど時代の移り代わりの頃です。
黒人相手の「テーラー」は、店構えがはっきり違っていました。
まずショウウィンドウの中の見本の洋服のデザインが実に斬新でした。
そしてその色彩たるや、当時の沖縄人には到底身に付けることが出来ないカラフルなものです。
また帽子も当たり前のフッションで、かなりカッコ良いものでした。
当時のアメリカのフッション雑誌の最先端の部分が、コザ十字路近辺の「テーラー」に全て集まっている、そんな風でした。
僕らはただただ驚きの目で彼らを見ていました。
当時の「テーラー」の中はどこも若い縫い子さんで一杯でした。
沖縄じゅうの田舎から出てきた10代から20代の娘です。
「テーラー」のなかには、いつも黒人のお客さんがたむろしている店も何軒かありました。
全部が仕立ての注文に来ているとも思えない、ちょっと怖い雰囲気が感じられる店。
そんな店には黒人といちゃついている年配の娘さんがたいていいたのですが、その側で明らかに緊張で身を硬くしている若い子がいました。
たぶん田舎から出てきたばかりで、日常的に黒人と接する機会が無く、ただただ驚きの連続であったのかもしれません。
何しろベトナム戦争の初期の頃、アメリカ人の凶悪な犯罪が多発している時代です。
タクシー強盗から婦女暴行、そして殺人と何でもありの時代、しかも裁判権が沖縄側に無い、植民地の時代です。
田舎から出てきた若い子にとってはカルチャーショックの連続だったのかもしれません。
僕らは毎日そんな「テーラー」の前を通学していたのですが、ある日そんな店の一つに、なんとも個性的な風貌をした子がいるのに気がつきました。
ちょっとやせ気味で、髪の長い、面長の可愛い子です。
たぶん18歳ぐらいだろうと思います。
いつも通路側の窓際の席で一生懸命縫い仕事をしています。
その店には5名ほどの縫い子さんがいたと思いますが、その中でも特に目立つ存在でした。
通学の帰りにその店の前を通り、その子を見るのがある意味楽しみになりました。
もちろんまだ高校生でうぶな時期、声を掛けることはできません。
ただただ毎日その子を見るだけのことです。
しかしたまにその子と目が合うこともあります。
そんな時はこっちのほうが思わず目をそらしてしまいます。
しかしそれが何回か続くと僕もなれてきて、そして相手もこっちを意識しているんではないかというずうずうしさもでてきます。
だからその子がうつむいて仕事をしていてこっちに気がつかない時は、引き返してもう一回その店の前を通ったりしたこともありました。
その子はちょっと影の部分も併せ持っていました。
店のほかの子と話しているのを見た事は殆んどありませんでしたし、笑顔を見たこともありません。
しかし何となく感じられるその暗い部分に僕はどこか惹きつけられた様な気がします。
声も掛けられず、ただ目と目を合わせるだけの状態が半年ほど続いたある日から、その店が黒人達の溜まり場に変貌しました。
いつ通ってもいつも黒人達で一杯です。
それでも彼女はいつもの席でもくもくと針仕事をしています。
しかしある日、本当に予期していなかったある日、彼女の笑い顔と何やら楽しそうに話している姿を見てしまいました。
その隣には背の高い黒人が。
僕は不意をつかれたような驚きを覚えました。
一瞬固まってしまったかもしれません。
そしてその光景はそれから何度も目撃する事になります。
もう僕と目を合わせることも無くなりました。
僕の中で何かが壊れました。
もう僕はその店の前を避けて通るようになりました。
そしてしばらくぶりに、何日かしてその店の前を通って、いつも彼女が座っていた席を見たら、違う女の子が座っていました。
それは翌日も一緒でした。
そしてそれから彼女を見かける事はもう二度とありませんでした。
先日、久しぶりにコザ十字路の昔の黒人街だった所を歩いている時、あの時の記憶がよみがえってきました。
ほろ苦い青春の記憶、今となってはあの時の「テーラー」がどこの場所にあったのかさへよく分かりません。
たぶん写真の店の近くだったとしか言えません。
2007年11月01日
壊した歴史を考えよう
夜の中の町むつみが丘公園。
コンクリートの広場です。
樹木は殆んどありません。
この公園に樹木が無いというのは、実は深い歴史的な理由があるのです。
昔、ここは小高い丘でした。
丘の周りには高い松の木があり、丘の頂上は屏風のような高い、大きな岩で覆われていました。
遠くから見ると、円錐形の綺麗な丘、まるでミニ富士山です。
高さはどのくらいあったのでしょうか。
小学生の僕らにはずいぶん高い山に見えたのですが、今考えてみるとそんなに高いわけではなかったのかもしれません。
しかしその頂上に登ると、東の海、西の海がはるか遠くの眼下に見えます。
当時、おそらくコザで最も見晴らしの良い絶景ポイントでした。
この丘のあちこちにはウガンジュもありました。
ある意味神聖な場所でもあったのです。
そして丘の周りの松の木は、大人二人でも抱えきれないほどの大きさだったと思います。
僕らはその松の木に登ろうと何度も試みたのですが、たいてい途中で断念させられます。
それぐらい僕らにとってこれらの木は大きく、偉大な存在でした。
何度この丘の頂きから東西南北を見渡したことでしょう。
この丘は、僕らにとって幼年期の思い出のシンボル的存在でした。
この丘が無くなるなんて考えたこともありませんでした。
しかしある日、ほんとに突然その日はやって来たのです。
丘の頂上の岩の周りをたくさんの畳、湿った畳で覆った姿を目の当たりにしたのです。
僕らはまだ小さかったので、その意味を知りませんでした。
まさか丘が無くなるなんて夢にも考えませんでした。
しかし、湿った畳の奥から鈍い爆発音が聞こえた時、なにが起ころうとしているのかやっと理解しました。
ああ、僕らが遊んだあの岩がダイナマイトで爆破されたのです。
信じられませんでした。
何かの間違いで、頂上の岩は壊しても、まさか丘そのものを抹殺するなんて夢にも思いません。
しかし僕らのその気持ちを裏切るように、たった一週間ほどで見事に、ほんとに見事にあの丘は跡形も無く消え失せてしまいました。
あの松の巨木ももちろん一本も残っていません。
そしてあの丘はその後、僕らの中の記憶に残るだけの存在になりました。
たかが小さい丘、たかが松の巨木というなかれ、その悲しい経験は、僕の中で永遠のトラウマになっているような気がします。
僕の巨木好き、そして大木を簡単に切り倒せない性格は、その時の悲しい記憶のせいでしょう。
今でもあの時そびえていた「むつみが丘」の神々しい雄姿は、僕の記憶の中にあります。
壊すのはほんとに簡単です。
しかしその前にもう一度立ち止まって考えることが必要です。
時間は現在だけのものだけではなく、将来にわたって責任を負おうものですから。
スケッチは、元文化協会会長の青山洋二さんが描いた在りし日の「むつみが丘」の姿です。
今では想像も出来ないでしょうが、僕の中の永遠の映像です。
2007年05月31日
昔ダンプカーで通学した日
最近の沖縄のバスはサービスが良くなりました。
運転手さんのアナウンスもちゃんとやっています。
一昔前では考えられない現象です。 (本当は当たり前の事ですが。)
さて昔、1964頃だと思いますが、沖縄で史上最大、最長期のバスストがありました。
正確な記憶では無いのですが、たぶん百日以上は続いたと思います。
当時の組合は非常に強く、また会社側も強硬でなかなか妥協出来ませんでした。
当然そのしわ寄せは一般庶民にもろに掛かってきました。
現在のような車社会では無かったので、通勤、通学に与えた影響は大変なものでした。
とうとう当時の琉球政府は、貨物トラック、ダンプカーをバスの代替車両として許可しました。
荷台に簡単なベンチを置いただけの急場しのぎの車です。
停留所ではハシゴを使って乗り降りしていました。
しかしそのハシゴも短いもので、地面まで届かないものが大半でした。
高齢者と女性には大変な負担だったろうと思います。
当時高校生だった僕らも当然その影響をもろに受けました。
学校に行く時はしかたがないのでそのトラックを利用していましたが、帰りは毎日徒歩です。
当時僕は諸見に住んでいたのですが、夏の暑い盛りに何キロも歩くのはこたえました。
しかもコザの地形は、帰りは全行程登りばっかりですから、何倍も大変な事です。
まるで戦前の子供の通学風景です。
その時ストに加わってないバス会社がただ一社ありました。
そのバスはコザ高校の前を通っていたのですが、混雑がひどくて、僕らの停留所の前で止まらない方が多かったと思います。
ですからトラックを利用する方が多かったような気がします。
その時の記憶から、僕らは沖縄のバス会社に対して、あまり良いイメージを持てませんでした。
ですから、本土の資本に買収されるという話を聞いても、まるで他人事のようにしか受け止められませんでした。
三つ後の魂百までと言いますが、まさにそれと同じかもしれません。
今本土資本のバスのサービスの良さを見ると、ちょっと複雑な気もします。
さて100日余のストが終わると、沖縄にいよいよマイカーブームの波が押し寄せます。
あの苦い経験が、みんなの自衛意識に火を付けてしまったのです。
その結果が現在の状況です。
しかしこれからは又、公共交通機関の役割を見直す時期が来ています。
それがバスなのか路面電車なのか議論が待たれます。
2007年05月15日
復帰記念日と「守礼の光」
与論島の沖縄返還記念碑です。
復帰前の4月28日に海をはさんで双方が大きなかがり火を焚いて連帯を誓い合った場所の近くに立っています。
5月15日、35年目の復帰記念日です。
その日は大雨でした。
確か日曜日だったと思いますが、僕は前日から飲んでいました。
歴史的な一瞬をグランド通りのスナックで迎えました。
12時を廻った時計を見て、あぁ、終わったなと思いました。
嬉しくて感激するというような気持ちではありませんでした。
ものすごい虚脱感と表現のしようの無い複雑な感情でいっぱいだったと思います。
あの時の感情を、今日のQABの特別番組を見て思い出しました。
復帰前キャンプキンザーに有った「第七心理作戦部隊」に勤めていた沖縄人と、当時のアメリカ人上司の証言を、たんねんに集めて作った素晴らしい番組です。
たぶん再放送されると思うので、まだの方はぜひご覧になってください。
アメリカの沖縄に於ける「宣撫工作」の実態を明らかにして行く番組なのですが、しかしそれはまた沖縄の復帰運動が抱えていた問題をも同時に思いださせてくれました。
復帰運動の初期の頃の象徴はまさに「日の丸」そのものでした。
そして学校教育では徹底した日本人教育でした。
沖縄の言葉、文化は軽視、いや蔑視されていました。
何でもかんでも本土、本土です。
その結果が現在のウチナーグチが置かれている状況です。
そんな中にあって、アメリカ軍の「第七心理作戦部隊」は、その風潮とはまったく違う対応をとります。
琉球王国の歴史の研究から、沖縄人のアイデンティティーに訴え、沖縄と本土との分断を図ります。
おそらく、沖縄の独立も視野に入れていたのでしょう。
もちろんアメリカの望む基地の恒久使用の条件付きでしょうが。
さてアメリカ軍はその目的のために、「守礼の光」という月刊誌を発行します。
毎回10万部というから、当時の沖縄では大変な数字です。
学校をはじめ図書館、役所、公民館、とにかくあらゆる所に配布されていました。
もちろん無料です。
この雑誌が宣撫工作用のものだという事は明らかだったのですが、しかしその中の琉球の民話や歴史のコーナーは正直いってとても新鮮な感じがして、毎回楽しみにしていました。
しかもそれは英語との対訳付きですから、当時の中学生、高校生には重宝なものでした。
ある意味、学校で教えてくれない沖縄の歴史の空白を埋める役割を果たしていたのかもしれません。
しかしアメリカ軍の宣撫工作にも関わらず、1969年の佐藤、ニクソンの会談で沖縄の返還が決まりました。
それでも「守礼の光」は72年の復帰の年まで発行され続けられ、やがてその役割を終えます。
今考えると僕の一番記憶に残っている記事は、復帰の一年前ぐらいに何回か連載されていた「プエルトリコ紀行」でした。
プエルトリコの政治、経済、自然にかんするものでしたが、その中で筆者が言いたかった事は明瞭なものでした。
プエルトリコの様に、沖縄も自治領を目指せと。
もちろんその時は、あぁーアメリカの本音が出たなと思いました。
自分の都合のいい様に、暗に沖縄に自治領を目指す事を促しているだけだと思いました。
筆者は沖縄の名前で出ていました。 しかし信用しませんでした。
たぶんアメリカ人が沖縄の名前で書いているんだろうと思っていました。
しかし復帰して何年かたった時、あの筆者は間違いなく沖縄の人間だったに違いないと思う様になりました。
それは、復帰の幻想が消えてしまった時、沖縄人のアイデンティティーの寄るべき所を考えた時です。
あの時の「プエルトリコ紀行」の筆者の言っていた事が分かるような気がしたからです。
そして5月14日の夜から飲み始めて15日に日付が変わった時のあのモヤモヤした感情の意味、それが改めて分かった様な気がしました。
そして1995年の金武町の少女暴行事件の時、復帰後の沖縄の人間の最大のチャンスが来た時、まさに自治領というのが眼の前まで来た時、あの「守礼の光」のプエルトリコ紀行の筆者の事を思い出しました。
しかし残念ながら、我々は少女の流した尊い「血」に応える事が出来ませんでした。
歴史は返らない、しかしまた終わりも無い。
復帰から35年になろうとも、その意味を考え続ける事が大事だと思います。
長くなりましたが、35年目の5月15日の感想です。
2007年05月13日
あれはニクソンショックから始まった
正確な年月日は忘れましたが、復帰の一年程前、突如アメリカが金とドルとの交換を停止しました。
それまでドルは金との交換を約束されていましたので、世界中に衝撃が走りました。
当時ベトナム戦争の真っ盛りで、アメリカはその戦費の膨張に苦慮していました。
当然財政、貿易収支も大赤字ですので、もはやドルに対する信認を繋ぎとめるのは難しくなっていたのです。
そしてしばらくすると、ドルの変動相場制への移行が決まりました。
いわゆる「ニクソンショック」です。
なにしろ戦後ずっと一ドル360円できた日本ですから、そのショックは、今の人間の考える以上に大きいものでした。
当時沖縄もドルを使っていたわけですが、なにしろ貿易の大半は日本本土とのものですから大変です。
今まで一ドルで買えたものが、それ以上出さないと買えなくなってしまったのです。
本土からの輸入品物価がいっきに値上がりを始めます。
しかもドルの価格下落のスピードは、予想をはるかに上回るものでした。
まさに急激なインフレの前兆が始まっていたのでした。
今日売るより、明日売るほうが儲かるという時代です。
紙幣より物を持っているのが得になる世の中になりつつありました。
運の悪い事に、その時既に沖縄の復帰は決まってしまっていました。
沖縄の住民の持っている財産が、一日一日目減りしていくのをただ黙って見ているしかない状況に置かれていたのです。
現在の円相場を見る視点とは全然違う状況でした。
幸いな事に、復帰の時点での沖縄住民の預貯金は360円で交換される事になって、とりあえず一段落したのですが、しかしドルの暴落は、その後沖縄とりわけコザの経済に致命的な打撃を与える事になります。
1971年12月の「コザ暴動」でアメリカ軍は、コザの全域に「オフリミッツ」を出して、アメリカ軍人の立ち入りを禁止しました。
当然、ゲート通りやセンター通りは半ばゴーストタウンと化します。
それはまた住民どうしの利害関係の対立をも誘発して、とうとう大山市長の襲撃事件にまで発展して行きます。
実に騒然とした世の中でした。
そしてコザ暴動の後の「オフリミッツ」の傷も癒えない内に、72年の復帰を迎える事になりました。
そしてその頃には円相場はさらに激しい動きを見せ始めていました。
復帰の時点で確か240円だったものが、一年もしない内に180円近くまで下がってしまったのです。
復帰前の半分です。
当然アメリカ人は物が買えなくなりました。
それまで民間地域で当たり前のように買い物をしていたのが、全て基地の中で済ますようになったのです。
まずコザのガソリンスタンド(当時はカルテックスといっていた)からアメリカ人の姿が完全に消えてしまいました。
そして島袋から諸見のおみやげ品の店が消えていきました。
またセンター通りの入り口からコザ十字路まで無数に有った家具、ベットの製造直売店が一つまた一つと消えていきました。
実はコザは復帰前、沖縄一の家具製造の拠点だったのです。
それを支えていたのがアメリカ軍人だったのです。
(今ではそれを知っている人も少なくなりましたが)
ベトナム戦争で多大な恩恵をこうむったコザの経済は、ベトナム戦争によってもたらされたドルの大暴落で、今度は壊滅的な被害を受ける事になりました。
復帰前那覇と競っていたコザの経済的な地位は、一気にドルと同じように急低下していきます。
中心市街地も昔の様相とは一変しました。
現在皆さんが見ているコザの姿がそこにはあります。
しかしコザの戦後体験は、独特の文化と人間の気質というかけがえの無いものも同時にもたらしてもくれました。
それはいろんな人間のせめぎあいと、圧倒的な物量のアメリカ文化との戦いの中でかち得た沖縄の人間のアイデンティティーそのものです。
そしていまだ根強く残っているその「コザらしさ」にこそ、これからのコザの再生のヒントが隠されているのではないでしょうか。
長くなって申しわけありませんが、15日の復帰記念日を前にして、ドルの大暴落という視点からコザの事を考えてみました。
機会があれば今度は別の視点から書いてみたいと思います。
それまでドルは金との交換を約束されていましたので、世界中に衝撃が走りました。
当時ベトナム戦争の真っ盛りで、アメリカはその戦費の膨張に苦慮していました。
当然財政、貿易収支も大赤字ですので、もはやドルに対する信認を繋ぎとめるのは難しくなっていたのです。
そしてしばらくすると、ドルの変動相場制への移行が決まりました。
いわゆる「ニクソンショック」です。
なにしろ戦後ずっと一ドル360円できた日本ですから、そのショックは、今の人間の考える以上に大きいものでした。
当時沖縄もドルを使っていたわけですが、なにしろ貿易の大半は日本本土とのものですから大変です。
今まで一ドルで買えたものが、それ以上出さないと買えなくなってしまったのです。
本土からの輸入品物価がいっきに値上がりを始めます。
しかもドルの価格下落のスピードは、予想をはるかに上回るものでした。
まさに急激なインフレの前兆が始まっていたのでした。
今日売るより、明日売るほうが儲かるという時代です。
紙幣より物を持っているのが得になる世の中になりつつありました。
運の悪い事に、その時既に沖縄の復帰は決まってしまっていました。
沖縄の住民の持っている財産が、一日一日目減りしていくのをただ黙って見ているしかない状況に置かれていたのです。
現在の円相場を見る視点とは全然違う状況でした。
幸いな事に、復帰の時点での沖縄住民の預貯金は360円で交換される事になって、とりあえず一段落したのですが、しかしドルの暴落は、その後沖縄とりわけコザの経済に致命的な打撃を与える事になります。
1971年12月の「コザ暴動」でアメリカ軍は、コザの全域に「オフリミッツ」を出して、アメリカ軍人の立ち入りを禁止しました。
当然、ゲート通りやセンター通りは半ばゴーストタウンと化します。
それはまた住民どうしの利害関係の対立をも誘発して、とうとう大山市長の襲撃事件にまで発展して行きます。
実に騒然とした世の中でした。
そしてコザ暴動の後の「オフリミッツ」の傷も癒えない内に、72年の復帰を迎える事になりました。
そしてその頃には円相場はさらに激しい動きを見せ始めていました。
復帰の時点で確か240円だったものが、一年もしない内に180円近くまで下がってしまったのです。
復帰前の半分です。
当然アメリカ人は物が買えなくなりました。
それまで民間地域で当たり前のように買い物をしていたのが、全て基地の中で済ますようになったのです。
まずコザのガソリンスタンド(当時はカルテックスといっていた)からアメリカ人の姿が完全に消えてしまいました。
そして島袋から諸見のおみやげ品の店が消えていきました。
またセンター通りの入り口からコザ十字路まで無数に有った家具、ベットの製造直売店が一つまた一つと消えていきました。
実はコザは復帰前、沖縄一の家具製造の拠点だったのです。
それを支えていたのがアメリカ軍人だったのです。
(今ではそれを知っている人も少なくなりましたが)
ベトナム戦争で多大な恩恵をこうむったコザの経済は、ベトナム戦争によってもたらされたドルの大暴落で、今度は壊滅的な被害を受ける事になりました。
復帰前那覇と競っていたコザの経済的な地位は、一気にドルと同じように急低下していきます。
中心市街地も昔の様相とは一変しました。
現在皆さんが見ているコザの姿がそこにはあります。
しかしコザの戦後体験は、独特の文化と人間の気質というかけがえの無いものも同時にもたらしてもくれました。
それはいろんな人間のせめぎあいと、圧倒的な物量のアメリカ文化との戦いの中でかち得た沖縄の人間のアイデンティティーそのものです。
そしていまだ根強く残っているその「コザらしさ」にこそ、これからのコザの再生のヒントが隠されているのではないでしょうか。
長くなって申しわけありませんが、15日の復帰記念日を前にして、ドルの大暴落という視点からコザの事を考えてみました。
機会があれば今度は別の視点から書いてみたいと思います。
2007年05月03日
コザ、もう一つの団塊世代
1960年、僕ら団塊の第一世代はコザ中に入学しました。
一年生は何と18クラスです。しかも一クラス60名、後ろの壁まで机がビッシリです。
先生も名前を覚えるだけでも大変な事だったと思います。
さてそんな大勢の同級生の中に、T君とS君がいました。
二人ともグレテいて、特にT君は3年生の時に、若い先生と二階の階段の手すりを突き破りそうなぐらいの激しいケンカをした事もある程の激しい性格の子でした。
それに対しS君は、グレテはいるものの、どこか寂しそうな横顔を持っていました。
そんな二人でしたが、クラスの仲間に手を出す事は一切ありませんでした。
どこか仲間意識が働いていたのかもしれません。
このへんが今の子供と違うところでしょうか。
そして3年間があっという間に過ぎ、高校に進学する者と就職する者に分かれ、僕らは永い事T君とS君の消息を聞く事はありませんでした。
しかし二人が暴力団の組織に加わっているという事は分かっていました。
当時沖縄の暴力団は離合集散を繰り返していました。
コザ派、那覇派、泡瀬派、山原派、普天間派と幾つもの組織が有り、抗争を繰り返していました。
僕らが特に記憶に残っているのは、普天間派と他の組織との抗争です。
血で血を洗う様な激しいものでした。
そして僕らの同級生のT君とS君も、敵と味方に分かれて争っているという噂が流れてきました。
特にT君がS君の消息を尋ねて、同級生のもとに来たらしいとの情報が流れた時は、皆複雑な気持ちながら心配したものです。
抗争は普天間派の親分の射殺で幕を下ろすのですが、そこからS君の消息がプッツリと消えて無くなりました。
たぶん本土に逃げたのだろうという噂でした。
しかし復帰前の沖縄ですから、本土に渡るのもそう簡単な事ではなかったはづです。
それから何年後でしょうか、S君がヒョッコリ姿を見せました。
僕の店に野菜の仕入れに来たのです。
驚きました。
板前をやっているとの事です。
たぶんあれから本土の方で修行してきたのでしょう。
丸坊主で、目つきは、修羅場をくぐって来た人間らしく、まだ鋭いものを持っているような気がしました。
お互い再会を喜び、店に行くことを約束しました。
たしか中之町だったと思いますが、一度足を運びました。
しかしそれから何年もしない内に、またS君の姿を見る事が無くなりました。
今どうしているのか分かりませんが、最近ふと思い出す事があります。
沖縄で修羅場をくぐって生きてきて、たぶん本土に行っても同じように修羅場の連続だったと思います。
彼の人生の軌跡を考えると、なぜか立場は違っても、共感するものを覚えてしまうのです。
さてもう一人の同級生のT君の消息は、あの抗争以来聞いた事がありません。
生きているのか死んでいるのかさえも分からないのです。
同級生の中には、彼は殺されたんではないかという者もいた様な気がしますが、いまだ消息不明です。
一年生は何と18クラスです。しかも一クラス60名、後ろの壁まで机がビッシリです。
先生も名前を覚えるだけでも大変な事だったと思います。
さてそんな大勢の同級生の中に、T君とS君がいました。
二人ともグレテいて、特にT君は3年生の時に、若い先生と二階の階段の手すりを突き破りそうなぐらいの激しいケンカをした事もある程の激しい性格の子でした。
それに対しS君は、グレテはいるものの、どこか寂しそうな横顔を持っていました。
そんな二人でしたが、クラスの仲間に手を出す事は一切ありませんでした。
どこか仲間意識が働いていたのかもしれません。
このへんが今の子供と違うところでしょうか。
そして3年間があっという間に過ぎ、高校に進学する者と就職する者に分かれ、僕らは永い事T君とS君の消息を聞く事はありませんでした。
しかし二人が暴力団の組織に加わっているという事は分かっていました。
当時沖縄の暴力団は離合集散を繰り返していました。
コザ派、那覇派、泡瀬派、山原派、普天間派と幾つもの組織が有り、抗争を繰り返していました。
僕らが特に記憶に残っているのは、普天間派と他の組織との抗争です。
血で血を洗う様な激しいものでした。
そして僕らの同級生のT君とS君も、敵と味方に分かれて争っているという噂が流れてきました。
特にT君がS君の消息を尋ねて、同級生のもとに来たらしいとの情報が流れた時は、皆複雑な気持ちながら心配したものです。
抗争は普天間派の親分の射殺で幕を下ろすのですが、そこからS君の消息がプッツリと消えて無くなりました。
たぶん本土に逃げたのだろうという噂でした。
しかし復帰前の沖縄ですから、本土に渡るのもそう簡単な事ではなかったはづです。
それから何年後でしょうか、S君がヒョッコリ姿を見せました。
僕の店に野菜の仕入れに来たのです。
驚きました。
板前をやっているとの事です。
たぶんあれから本土の方で修行してきたのでしょう。
丸坊主で、目つきは、修羅場をくぐって来た人間らしく、まだ鋭いものを持っているような気がしました。
お互い再会を喜び、店に行くことを約束しました。
たしか中之町だったと思いますが、一度足を運びました。
しかしそれから何年もしない内に、またS君の姿を見る事が無くなりました。
今どうしているのか分かりませんが、最近ふと思い出す事があります。
沖縄で修羅場をくぐって生きてきて、たぶん本土に行っても同じように修羅場の連続だったと思います。
彼の人生の軌跡を考えると、なぜか立場は違っても、共感するものを覚えてしまうのです。
さてもう一人の同級生のT君の消息は、あの抗争以来聞いた事がありません。
生きているのか死んでいるのかさえも分からないのです。
同級生の中には、彼は殺されたんではないかという者もいた様な気がしますが、いまだ消息不明です。
2007年02月20日
1972年、ペテン師軍団沖縄上陸(2)
さて1972年5月15日の復帰の日、パスポ~トが要らなくなった沖縄に、それまでとは違う人種が入って来るようになりました。
それまではパスポ~トを取得するのに、沖縄側の身元保証人が絶対必要でしたので、怪しい類いの人は入って来れませんでした。ある意味、バリアが効いていたのです。
しかしいったんそれが無くなると、事態は加速度的に変化を始めます。
そしてそれは、沖縄人の意識にやがておおきな変化をもたらしました。
何年か前、親父の遺品の中から、菊のご紋の入った小さな「金杯」が出てきました。
驚きと共に、あの日の事が鮮明に記憶の中から蘇ってきました。
それは、復帰の年に、親父が売りつけられたニセの「宮内庁製造の金杯」だったのです。
あの日、何名かの親戚が家に集まってなにやら怪しい議論をしていました。
どうやらあの「金杯」を買って良いのかどうかという事でした。
側で聞き耳を立てていると、かなりばかばかしい話です。
なんでもわが家が「沖縄の名家100選に選ばれ、復帰記念に宮内庁が「金杯」を製造する事になり、その名家の方たちだけに限定販売するというのです。
何が「名家」かと思いました。
読谷で食えなくなって、はるばる与那国まで開拓移民に行った家系が、「名家」であるはづがありません。
とうとう僕も我慢が出来なくなって、側から口をはさみました。
「だまされている」、そういいました。
しかし、親戚の誰も耳をかしません。
完全に暗示にかかっているような状態です。
親父はずっと黙ったままでした。
まさか親父はその話を信用はしてないだろうというのが、その時の僕の印象だったので、安心してその場を離れたのですが、それから30年以上も経ってから、その「金杯」が出てくるとはまさに悪夢です。
しかしその「金杯」を見つけた時、驚きと同時に、笑ってしまいました。
あの復帰の年、「金杯」だけではなく、にせものの「時計」、安物の「背広」など、いろんなまがい物を売りつけられる事件が沖縄中で多発していました。
そのほとんどのやり口は、本土に帰る旅費が無くなったので、なんとか助けてくれというものだったのです。
復帰前の「ホスピタリ~」精神がまだまだ旺盛な時ですから、なんか「怪しい」と思っても、けっきょく助けてあげるわけです。
僕の親父は、「金杯」だけでは無く、「背広」も確か2着買わされたと思います。
しかし親父の名誉のために言っておきます。
沖縄のことわざに次の様な言葉があります。
「人にだまされても眠れるが、人をだましたら眠れない」
小さい時おば~さんからよく聞かされた言葉です。
もちろん僕らより古い世代の親父ですから、言葉巧みに平気で人を騙す人間がいるといのは、信じられなかったのでしょう。
ましてや長い事分断されていた本土の人間が、沖縄の人間にそういう仕打ちをするとは、夢にも思わなかったに違いないと思います。
しかし最近僕が考えるに、その時一見騙されたように見えた人達は、実はうすうす分かっていて騙されたのではなかったのだろうかという事です。
その答えは、島社会の持つ、外の世界からやって来た人に対する「ホスピタリティ~精神」、そのものにあるように思います。
あれから30余年、パスポ~トも無くなり、人の往来はあの時の何万倍にも拡大しました。
そして今や、沖縄移住ブ~ムの時代。
これからも様々な人達が沖縄にやって来ると思いますが、あの時のばかばかしくも貴重な体験が、今後も笑い話になっていく事を願うばかりです。
それまではパスポ~トを取得するのに、沖縄側の身元保証人が絶対必要でしたので、怪しい類いの人は入って来れませんでした。ある意味、バリアが効いていたのです。
しかしいったんそれが無くなると、事態は加速度的に変化を始めます。
そしてそれは、沖縄人の意識にやがておおきな変化をもたらしました。
何年か前、親父の遺品の中から、菊のご紋の入った小さな「金杯」が出てきました。
驚きと共に、あの日の事が鮮明に記憶の中から蘇ってきました。
それは、復帰の年に、親父が売りつけられたニセの「宮内庁製造の金杯」だったのです。
あの日、何名かの親戚が家に集まってなにやら怪しい議論をしていました。
どうやらあの「金杯」を買って良いのかどうかという事でした。
側で聞き耳を立てていると、かなりばかばかしい話です。
なんでもわが家が「沖縄の名家100選に選ばれ、復帰記念に宮内庁が「金杯」を製造する事になり、その名家の方たちだけに限定販売するというのです。
何が「名家」かと思いました。
読谷で食えなくなって、はるばる与那国まで開拓移民に行った家系が、「名家」であるはづがありません。
とうとう僕も我慢が出来なくなって、側から口をはさみました。
「だまされている」、そういいました。
しかし、親戚の誰も耳をかしません。
完全に暗示にかかっているような状態です。
親父はずっと黙ったままでした。
まさか親父はその話を信用はしてないだろうというのが、その時の僕の印象だったので、安心してその場を離れたのですが、それから30年以上も経ってから、その「金杯」が出てくるとはまさに悪夢です。
しかしその「金杯」を見つけた時、驚きと同時に、笑ってしまいました。
あの復帰の年、「金杯」だけではなく、にせものの「時計」、安物の「背広」など、いろんなまがい物を売りつけられる事件が沖縄中で多発していました。
そのほとんどのやり口は、本土に帰る旅費が無くなったので、なんとか助けてくれというものだったのです。
復帰前の「ホスピタリ~」精神がまだまだ旺盛な時ですから、なんか「怪しい」と思っても、けっきょく助けてあげるわけです。
僕の親父は、「金杯」だけでは無く、「背広」も確か2着買わされたと思います。
しかし親父の名誉のために言っておきます。
沖縄のことわざに次の様な言葉があります。
「人にだまされても眠れるが、人をだましたら眠れない」
小さい時おば~さんからよく聞かされた言葉です。
もちろん僕らより古い世代の親父ですから、言葉巧みに平気で人を騙す人間がいるといのは、信じられなかったのでしょう。
ましてや長い事分断されていた本土の人間が、沖縄の人間にそういう仕打ちをするとは、夢にも思わなかったに違いないと思います。
しかし最近僕が考えるに、その時一見騙されたように見えた人達は、実はうすうす分かっていて騙されたのではなかったのだろうかという事です。
その答えは、島社会の持つ、外の世界からやって来た人に対する「ホスピタリティ~精神」、そのものにあるように思います。
あれから30余年、パスポ~トも無くなり、人の往来はあの時の何万倍にも拡大しました。
そして今や、沖縄移住ブ~ムの時代。
これからも様々な人達が沖縄にやって来ると思いますが、あの時のばかばかしくも貴重な体験が、今後も笑い話になっていく事を願うばかりです。
2007年02月19日
1972年、ペテン師軍団沖縄上陸(1)
団塊世代の大量退職で、新たな移住ブ~ムが始まろうとしています。
今まではどちらかと言うと、若い世代の方が多かったと思いますが、これからはそれに加えて、60代の方の大量移住の時代がやってきそうです。
全国の自治体が「移住者」の誘致合戦を繰り広げている中、沖縄はあまり努力しなくても自然発生的に増えているようです。
沖縄市も例外では無く、ここ2~3年多くの移住者の方と接する事が増えてきました。
それも実に多彩な顔ぶれで、いろんなキャリアを持っている人たちです。
話していても楽しい人が大多数で、外から来た人の眼で見る「コザ」を考えされられたり、いろいろ刺激になる事が多いと思います。
そしてコザは、他所から来た人にある意味優しい街ですから、地元の人間と余所者の垣根が驚くほど低い所だと思います。
しかし移住ブ~ムの中、現在のコザの様にうまくいっている所ばかりでは無く、かなりの軋轢を抱えている所もだんだん増えてくるような気がします。
本来「島社会」は、二つの異なる側面を持っています。
外の世界に向けての「開放性」と、内なる「閉鎖性」。
それが、その時々で違う顔を見せるのです。
沖縄の「開放性」が、一番強く現れていたのは復帰の前でしょう。
まだパスポ~トの必要な時代でしたが、それでも結構たくさんの人が訪れていたものです。
本土にいる友達から、知り合いが来るから「よろしく」と電話が入ろうものなら、もう大変な騒ぎです。
港、空港まで迎えにいくのは当たり前、自分の家に泊め、翌日からは仕事を休んで観光案内です。
さすがに二日連続は休めないので、次の日は別の友達にバトンタッチです。
夜は夜で、めったに行かないステ~キハウスへ、あるいは中の町の民謡クラブへ、とにかく、相手が疲れていようがおかまいなく、毎日とことんいろんな所へ案内します。
帰りは大勢で、港、空港まで見送りです。
もちろんたくさんのお土産付きです。
今みたいに便利な宅急便など無い時ですから、持って帰るのに一苦労だったと思いますが、そんな事には誰も気を使いません。
なにしろ、滞在中に会ったいろんな人から別々にお土産がくるものですから、その量は膨大なものになってしまうわけです。
沖縄の言葉に、「ただ~け~さん」というのがあります。
直訳すると、「ただは帰さん」という事ですが、これじゃ意味がまったく分からないと思います。
下手に訳すよりも、今までの流れを考えて貰ったほうが正確に伝わると思います。
とにかく、復帰前の沖縄の人間の持っていた「ホスピタリティ~精神」というのは、生半可なものではなかったと思います。
一番大事な事は、それを本人達も楽しみながら、嬉々としてやっていた事だと思います。
しかし、島社会の持つ「開放性」と「ホスピタリティ~精神」を傷付ける、大きなな社会的な変化が訪れます。
1972年の「祖国復帰」です。
その後の話はまた明日にまわす事にしましょう。
今まではどちらかと言うと、若い世代の方が多かったと思いますが、これからはそれに加えて、60代の方の大量移住の時代がやってきそうです。
全国の自治体が「移住者」の誘致合戦を繰り広げている中、沖縄はあまり努力しなくても自然発生的に増えているようです。
沖縄市も例外では無く、ここ2~3年多くの移住者の方と接する事が増えてきました。
それも実に多彩な顔ぶれで、いろんなキャリアを持っている人たちです。
話していても楽しい人が大多数で、外から来た人の眼で見る「コザ」を考えされられたり、いろいろ刺激になる事が多いと思います。
そしてコザは、他所から来た人にある意味優しい街ですから、地元の人間と余所者の垣根が驚くほど低い所だと思います。
しかし移住ブ~ムの中、現在のコザの様にうまくいっている所ばかりでは無く、かなりの軋轢を抱えている所もだんだん増えてくるような気がします。
本来「島社会」は、二つの異なる側面を持っています。
外の世界に向けての「開放性」と、内なる「閉鎖性」。
それが、その時々で違う顔を見せるのです。
沖縄の「開放性」が、一番強く現れていたのは復帰の前でしょう。
まだパスポ~トの必要な時代でしたが、それでも結構たくさんの人が訪れていたものです。
本土にいる友達から、知り合いが来るから「よろしく」と電話が入ろうものなら、もう大変な騒ぎです。
港、空港まで迎えにいくのは当たり前、自分の家に泊め、翌日からは仕事を休んで観光案内です。
さすがに二日連続は休めないので、次の日は別の友達にバトンタッチです。
夜は夜で、めったに行かないステ~キハウスへ、あるいは中の町の民謡クラブへ、とにかく、相手が疲れていようがおかまいなく、毎日とことんいろんな所へ案内します。
帰りは大勢で、港、空港まで見送りです。
もちろんたくさんのお土産付きです。
今みたいに便利な宅急便など無い時ですから、持って帰るのに一苦労だったと思いますが、そんな事には誰も気を使いません。
なにしろ、滞在中に会ったいろんな人から別々にお土産がくるものですから、その量は膨大なものになってしまうわけです。
沖縄の言葉に、「ただ~け~さん」というのがあります。
直訳すると、「ただは帰さん」という事ですが、これじゃ意味がまったく分からないと思います。
下手に訳すよりも、今までの流れを考えて貰ったほうが正確に伝わると思います。
とにかく、復帰前の沖縄の人間の持っていた「ホスピタリティ~精神」というのは、生半可なものではなかったと思います。
一番大事な事は、それを本人達も楽しみながら、嬉々としてやっていた事だと思います。
しかし、島社会の持つ「開放性」と「ホスピタリティ~精神」を傷付ける、大きなな社会的な変化が訪れます。
1972年の「祖国復帰」です。
その後の話はまた明日にまわす事にしましょう。
2007年02月15日
香港人のワンさんの夫婦喧嘩
コザには20数ヶ国の外国人が住んでいるといわれています。
しかしそれは住民登録をしている人の話です。
広大なカデナ基地のなかに住んでいるアメリカ人はカウントの対象から外れます。
復帰後は、沖縄人とアメリカ人の住み分けが進んで、金網の内と外にはっきりと分けられてしまいました。
もちろんそれは「思いやり」予算のもとでの、飽くなき住宅建設のおかげです。
しかし復帰前は違いました。
米軍の方から、民間地域での住宅建設を奨励していました。
いわゆる「貸し住宅」というものです。
当然、民間地域の中に民間が造るわけですから、今みたいに金網なんて無いわけです。
ですから必然的に垣根はかなり低いものでした。
隣は外人住宅という例もかなりの数で有ったと思います。
しかしコザには、それとは違った形で、ごく身近に外国人がいました。
それは、沖縄の女性とのかップルです。
その相手は殆んどがアメリカ人でしたが、中には、フィリピン人、中国人という例も有りました。
今日お話するのは、そのなかで香港からきた「ワン」さんのことです。
諸見に住んでいた僕の家のすぐ隣の人です。
彼は、アメリカ人向けのオ~ダ~メイドの洋服屋さんでした。
香港には家族を残して単身沖縄に来ていました。
しかし彼にはコザに一緒に住んでいる彼女がいました。
もう名前も忘れてしまいましたが、田舎からやっぱり単身で来ている人でした。
たぶん「ワン」さんの店で働いていて一緒になったんだと思います。
その人は特別美人ではありませんでしたが、本当によく笑う、素朴で明るい人でした。
しかし体には大きなハンディ~を背負っていました。
それは右足だったと思いますが、大変なびっこを引いていました。
体の大きい、太った「ワン」さんと一緒に歩いている姿は、子供心にはちょっとアンバランスでユ~モアな感じがしたものです。
この二人は非常に仲が良く、「ワン」さんが彼女の事を気遣っている事は、子供の僕らにも痛いほどよく分かりました。
しかし、ごくたまに夫婦喧嘩をする時がありました。
「ワン」さんのいかにも中国人っぽい日本語が外まで聞こえてきたら、さあ始まりです。
近所の人なら誰でも知っている「ワン」さんのパフォ~マンスがはじまります。
「ワン」さんは、喧嘩はしても、決して彼女を殴るような事はありませんでした。
180センチ以上はあった、しかも太った、絵に描いたような典型的な中国人の「ワン」さんに、暴力的な事は似合いませんでした。
ですから、子供の僕らも喧嘩のなりゆきは全然心配していませんでした。
僕らが期待に胸膨らませていたのは、その次起こる「ワン」さんのパフォ~マンスです。
その期待が裏切られる事はありませんでした。
「ワン」さんは、家中の茶碗や皿、コップ、はては鍋まで庭に一列に並べます。
そして右端から、鉄のはしで一つづつ割っていきます。
もちろん鍋は割れるわけはなく、へこむだけです。
それをゆっくりと一つづつやるわけですから、かなり時間はかかっていたと思います。
その間、彼女は僕の家でお茶を飲みながら、おしゃべりをしているのです。
そして、食器をわった「ワン」さんは、僕らの見守る中、ぶらっと何処かえ消えていきます。
すると、それを待っていたかのように、彼女はその割れた食器の片付けにとりかかります。
そしてその片付けが終わる頃、「ワン」さんは何事も無かったかの様に家に帰ってきます。
その後は、またいつもの仲良しのカップルです。
そういった事を何回か見ていた僕は、中国人って凄いなと子供心に思ったものです。
まさに「大人」とは、こういう事だと感動したものです。
あれから40年余りにもなりますが、僕にとっては永遠に忘れられない思い出です。
しかしそれは住民登録をしている人の話です。
広大なカデナ基地のなかに住んでいるアメリカ人はカウントの対象から外れます。
復帰後は、沖縄人とアメリカ人の住み分けが進んで、金網の内と外にはっきりと分けられてしまいました。
もちろんそれは「思いやり」予算のもとでの、飽くなき住宅建設のおかげです。
しかし復帰前は違いました。
米軍の方から、民間地域での住宅建設を奨励していました。
いわゆる「貸し住宅」というものです。
当然、民間地域の中に民間が造るわけですから、今みたいに金網なんて無いわけです。
ですから必然的に垣根はかなり低いものでした。
隣は外人住宅という例もかなりの数で有ったと思います。
しかしコザには、それとは違った形で、ごく身近に外国人がいました。
それは、沖縄の女性とのかップルです。
その相手は殆んどがアメリカ人でしたが、中には、フィリピン人、中国人という例も有りました。
今日お話するのは、そのなかで香港からきた「ワン」さんのことです。
諸見に住んでいた僕の家のすぐ隣の人です。
彼は、アメリカ人向けのオ~ダ~メイドの洋服屋さんでした。
香港には家族を残して単身沖縄に来ていました。
しかし彼にはコザに一緒に住んでいる彼女がいました。
もう名前も忘れてしまいましたが、田舎からやっぱり単身で来ている人でした。
たぶん「ワン」さんの店で働いていて一緒になったんだと思います。
その人は特別美人ではありませんでしたが、本当によく笑う、素朴で明るい人でした。
しかし体には大きなハンディ~を背負っていました。
それは右足だったと思いますが、大変なびっこを引いていました。
体の大きい、太った「ワン」さんと一緒に歩いている姿は、子供心にはちょっとアンバランスでユ~モアな感じがしたものです。
この二人は非常に仲が良く、「ワン」さんが彼女の事を気遣っている事は、子供の僕らにも痛いほどよく分かりました。
しかし、ごくたまに夫婦喧嘩をする時がありました。
「ワン」さんのいかにも中国人っぽい日本語が外まで聞こえてきたら、さあ始まりです。
近所の人なら誰でも知っている「ワン」さんのパフォ~マンスがはじまります。
「ワン」さんは、喧嘩はしても、決して彼女を殴るような事はありませんでした。
180センチ以上はあった、しかも太った、絵に描いたような典型的な中国人の「ワン」さんに、暴力的な事は似合いませんでした。
ですから、子供の僕らも喧嘩のなりゆきは全然心配していませんでした。
僕らが期待に胸膨らませていたのは、その次起こる「ワン」さんのパフォ~マンスです。
その期待が裏切られる事はありませんでした。
「ワン」さんは、家中の茶碗や皿、コップ、はては鍋まで庭に一列に並べます。
そして右端から、鉄のはしで一つづつ割っていきます。
もちろん鍋は割れるわけはなく、へこむだけです。
それをゆっくりと一つづつやるわけですから、かなり時間はかかっていたと思います。
その間、彼女は僕の家でお茶を飲みながら、おしゃべりをしているのです。
そして、食器をわった「ワン」さんは、僕らの見守る中、ぶらっと何処かえ消えていきます。
すると、それを待っていたかのように、彼女はその割れた食器の片付けにとりかかります。
そしてその片付けが終わる頃、「ワン」さんは何事も無かったかの様に家に帰ってきます。
その後は、またいつもの仲良しのカップルです。
そういった事を何回か見ていた僕は、中国人って凄いなと子供心に思ったものです。
まさに「大人」とは、こういう事だと感動したものです。
あれから40年余りにもなりますが、僕にとっては永遠に忘れられない思い出です。
